7年前の今ごろ

7年前の今ごろ、僕は新幹線に乗ってまもなく新青森だなあ、と読んでいた吉村昭「関東大震災」をしまって降りる支度をし始めていただろうか。
頼まれて、ある労組の勉強会で話をするために弘前に一日早く行って、そこでうまい魚で一杯やろうと、森田町に住む友人に声をかけてある。
いや、当初は一人で青森あたりをうろつこうと、どこかお薦めの居酒屋を知らないかと訊いたら、そんならオレも行く、青森まで迎えに行く、店は弘前にいい店があっから、と、いくら「ほんとは一人の方が気楽でいいから」と遠回しに言っても、直截にいっても「いいって、いぐから」の一点張り、青森の美術館も付き合うからというのさ。
新青森で、再会を果たし構内でうどんだったかを食い終わったころ、突然グラグラ船酔いするような感じで揺れて停電した。
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美術館に行ったが停電で、次回の入場券を貰って、雪の道を弘前に、おお、ここも信号機消えてる、などと、ちょっとはしゃいだ気分で行った。
ホテルにチエックイン、暗くなりゆく窓の外に降りしきる雪をみて、こりゃあいい酒が飲めそうだと、まだ事態の真相に気がついていなかった。
けっきょく居酒屋は諦めて、友人が機転を利かせて買って来たコンビニの在り合わせを蝋燭の灯りで食ってしのいだ時にホテルからムスビを差し入れてもらったことなどが、ガラケーから次々に発信されている。
ホテルの備品だったか、携帯ラジオの昔の海外でのオリンピック中継みたいに肝心なところが聴き取れないのだが、このころやっと、どうやら大変な地震だったことを知る。

翌日は晴れて、新幹線で帰ろうと青森に友人の車で向かった。
ホテルには泊まれないというのでチエックアウトしたら、無料、トイレの水が流れなかったことを今でも気にしている。
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結局、青森で宿も見つからず、「もう、俺のいえさこえ」で、森田町の友人の家に泊まる。
途中で、鶴舞温泉に入って顔を洗ったり、駐車場で車中テレビをみてフクイチの爆発を知り、もうおしまいかと思った。

五所川原の居酒屋でいっぱいやりながら、フクシマの後報を知ろうとするが、枝野の説明が要領を得ないので、ますます心配が募った。
13日、青森空港からなんとか(ラッキーにも)帰京するまで、勘定してみると15回、ガラケーからブログに投稿している。

こうして読み直してみると、あれだけの災害を紙一重でかわしていながら、その時の気持ちはどこか気楽な(親切な友人に守られていたし)ところがある。
帰京してカミさんから東京の様子、とくに暮れに亡くなった義母の友人に宿をしたことなどを聴いて、びっくりしたくらい。
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毎年、あの日のこと、その後のことが伝えられるたびに、ああ、ぼくは能天気だったと、いや、今も能天気な隠居だと思う。

タラレバ、地震がなくて予定通りに勉強会が開かれていたら、どんな話をしただろう。
その前年に岩手県の和賀仙人の近くでその勉強会で話をして、その続きをしてくれというのが弘前だった。
今、思うと、軽はずみに引き受けたものだ、そして調子に乗ってパアパアとくだらないことをくっちゃべったものだ。
地震のおかげで、二度もそんな醜態をさらさないで済んだ、何ごとにもいい面がある。
なんて言ったら、被災者に申し訳ないな、ごめんなさい。
Commented by jarippe at 2018-03-11 18:01
あの日青森にいらしたんですね
さぞ揺れも大きかったことでしょう
この日の事ってなぜこんなにはっきり覚えているのでしょう
皆覚えているからみんなでみんながホッと出来る施策を
お願いしたいです
Commented by urontei at 2018-03-11 20:52
7年前のあの日のこと、昨日のことのように思い出されます。

会社の車を借りて家に帰ったのですが、停電で真っ暗になった町の中に、渋滞した車の赤いテールランプの列だけが、ずーっと続いていたのが、妙に印象に残っています。
Commented by tona at 2018-03-11 22:08 x
私もあの地震の揺れを知らなくて、結構肩身が狭い思いをしました。友人と鳥取砂漠の当たりにいました。
でもバスの中で携帯で東京から続々家族から地震の知らせがあって大変らしいことがわかりました。夜ホテルでテレビを見てびっくり。翌日飛行機はちゃんと羽田について家にも無事帰ることが出来たのですが、旅行していたなんてとても大きな声で言えませんでした。今もまだ仮設住宅に住んでいる方々、お気の毒です。政府は森友にそんな安いお金で売らないで、震災で困っている人を援助してほしい。
Commented by saheizi-inokori at 2018-03-11 22:10
> jarippeさん、私はもう忘れていることが多いのです。
ブログで見直して物事の順番の記憶を糺したりしています。
あの後、孫たちに遠くに避難するように言ったことなども思い出しました。
忘れるからこそ、しつこいくらい報道を繰り返して欲しいです。
Commented by saheizi-inokori at 2018-03-11 22:12
> uronteiさん、>昨日のことのように思いだす
それも>印象に残った、ことに限られていくのではないでしょうか。
忘れたいけれど忘れないようにしたいと思います。
Commented by saheizi-inokori at 2018-03-11 22:18
> tonaさん、鳥取砂丘!それじゃあ気がつかないのも当たり前でしたね。
私は停電の弘前にいましたから、惨状をテレビで見たのは翌日でしたよ。
被災者の方たちは忘れたくても忘れられない日常生活になっているのだと思うと、申し訳ないような気がします。
オリンピックで復興なんて嘘、被災者以外を興奮させて忘れさせたいのではないかと、勘繰ります。
Commented by hanamomo08 at 2018-03-11 22:54
saheiziさん、震災の時は青森だったのですね。
今携帯から更新したブログをさかのぼって拝見しました。
大変でしたね。
つくづく東京オリンピックどころではないと思います。
平安の時代にも同じような大震災があったようですね。
千年に一度の大震災に遭遇した私たちなのですね。
被災しいまだ普通の暮らしが出来ていない人々に政府は目を向けて欲しい。
そうしたらああいうイベントはやれないはず。
Commented by saheizi-inokori at 2018-03-12 09:25
> hanamomo08さん、オリンピックなんかやってる状況でもないし、モリカケ隠しをしている場合でもないですね。
さっさと政権交代です。
Commented by j-garden-hirasato at 2018-03-12 09:59
震災のとき、青森でしたか。
少しズレていたら、
巻き込まれていたかもしれませんね。
未だ頭に焼き付いた津波の映像、
鮮明に覚えています。
自然の前に、人間は無力です。

Commented by rinrin1345 at 2018-03-12 10:26
松本にいる息子の働いている会社の人全員で我が家と私と夫の携帯に繋がるようにと電話をかけ続けてくれたそうです。おかげで留守番の母と帰宅途中の私と夫に連絡が取れ、お互いの無事もわかりました。奇跡に近い通話でした。信州人最高でしたよ。
Commented by at 2018-03-12 16:19 x
和多志もなんも出来てないし、忘れる時もあるけど、
今からでも「明日は我が身」と心がけ、しっかり生きることを改めて誓う。
Commented by saheizi-inokori at 2018-03-12 21:27
> j-garden-hirasatoさん、あのとき新幹線がひっくり返らなかったのはある意味では奇蹟でしょうね。
ほんとに人間はもっと謙虚になるべきだと思います。
Commented by saheizi-inokori at 2018-03-12 21:28
> rinrin1345さん、信州人も東北人も東京人も、、最高な人が多かったのじゃないでしょうか。
その力を今も発揮して欲しいと思います。
Commented by saheizi-inokori at 2018-03-12 21:38
> 蛸さん、しっかり生きてますよ、あなたは。
Commented by doremi730 at 2018-03-13 00:05
ウチは3.11が孫の誕生日なので、
食事の時にオメデトウを言う前に
みんなで黙祷をしています。
せめてもの、、、、
Commented by saheizi-inokori at 2018-03-13 10:54
> doremi730さん、お孫さんにフクシマの話をしてあげてください。
語りあえるようになればいいですね。
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by saheizi-inokori | 2018-03-11 13:18 | こんなところがあったよ | Trackback | Comments(16)

ホン、よしなしごと、食べ物、散歩・・


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