7年前の今ごろ
2018年 03月 11日
頼まれて、ある労組の勉強会で話をするために弘前に一日早く行って、そこでうまい魚で一杯やろうと、森田町に住む友人に声をかけてある。
いや、当初は一人で青森あたりをうろつこうと、どこかお薦めの居酒屋を知らないかと訊いたら、そんならオレも行く、青森まで迎えに行く、店は弘前にいい店があっから、と、いくら「ほんとは一人の方が気楽でいいから」と遠回しに言っても、直截にいっても「いいって、いぐから」の一点張り、青森の美術館も付き合うからというのさ。
新青森で、再会を果たし構内でうどんだったかを食い終わったころ、突然グラグラ船酔いするような感じで揺れて停電した。
ホテルにチエックイン、暗くなりゆく窓の外に降りしきる雪をみて、こりゃあいい酒が飲めそうだと、まだ事態の真相に気がついていなかった。
けっきょく居酒屋は諦めて、友人が機転を利かせて買って来たコンビニの在り合わせを蝋燭の灯りで食ってしのいだ時にホテルからムスビを差し入れてもらったことなどが、ガラケーから次々に発信されている。
ホテルの備品だったか、携帯ラジオの昔の海外でのオリンピック中継みたいに肝心なところが聴き取れないのだが、このころやっと、どうやら大変な地震だったことを知る。
翌日は晴れて、新幹線で帰ろうと青森に友人の車で向かった。
ホテルには泊まれないというのでチエックアウトしたら、無料、トイレの水が流れなかったことを今でも気にしている。
途中で、鶴舞温泉に入って顔を洗ったり、駐車場で車中テレビをみてフクイチの爆発を知り、もうおしまいかと思った。
五所川原の居酒屋でいっぱいやりながら、フクシマの後報を知ろうとするが、枝野の説明が要領を得ないので、ますます心配が募った。
13日、青森空港からなんとか(ラッキーにも)帰京するまで、勘定してみると15回、ガラケーからブログに投稿している。
こうして読み直してみると、あれだけの災害を紙一重でかわしていながら、その時の気持ちはどこか気楽な(親切な友人に守られていたし)ところがある。
帰京してカミさんから東京の様子、とくに暮れに亡くなった義母の友人に宿をしたことなどを聴いて、びっくりしたくらい。
タラレバ、地震がなくて予定通りに勉強会が開かれていたら、どんな話をしただろう。
その前年に岩手県の和賀仙人の近くでその勉強会で話をして、その続きをしてくれというのが弘前だった。
今、思うと、軽はずみに引き受けたものだ、そして調子に乗ってパアパアとくだらないことをくっちゃべったものだ。
地震のおかげで、二度もそんな醜態をさらさないで済んだ、何ごとにもいい面がある。
なんて言ったら、被災者に申し訳ないな、ごめんなさい。
さぞ揺れも大きかったことでしょう
この日の事ってなぜこんなにはっきり覚えているのでしょう
皆覚えているからみんなでみんながホッと出来る施策を
お願いしたいです
会社の車を借りて家に帰ったのですが、停電で真っ暗になった町の中に、渋滞した車の赤いテールランプの列だけが、ずーっと続いていたのが、妙に印象に残っています。
でもバスの中で携帯で東京から続々家族から地震の知らせがあって大変らしいことがわかりました。夜ホテルでテレビを見てびっくり。翌日飛行機はちゃんと羽田について家にも無事帰ることが出来たのですが、旅行していたなんてとても大きな声で言えませんでした。今もまだ仮設住宅に住んでいる方々、お気の毒です。政府は森友にそんな安いお金で売らないで、震災で困っている人を援助してほしい。
ブログで見直して物事の順番の記憶を糺したりしています。
あの後、孫たちに遠くに避難するように言ったことなども思い出しました。
忘れるからこそ、しつこいくらい報道を繰り返して欲しいです。
私は停電の弘前にいましたから、惨状をテレビで見たのは翌日でしたよ。
被災者の方たちは忘れたくても忘れられない日常生活になっているのだと思うと、申し訳ないような気がします。
オリンピックで復興なんて嘘、被災者以外を興奮させて忘れさせたいのではないかと、勘繰ります。
今携帯から更新したブログをさかのぼって拝見しました。
大変でしたね。
つくづく東京オリンピックどころではないと思います。
平安の時代にも同じような大震災があったようですね。
千年に一度の大震災に遭遇した私たちなのですね。
被災しいまだ普通の暮らしが出来ていない人々に政府は目を向けて欲しい。
そうしたらああいうイベントはやれないはず。
今からでも「明日は我が身」と心がけ、しっかり生きることを改めて誓う。