本のない人生なんて 紀田順一郎「蔵書一代 なぜ蔵書は増え、そして散逸するのか」
2018年 02月 22日
五時から始めて、もう一本もう一本と五本ばかり、三匹の魚ならぬ爺、飲むのは僕ひとり。
世の健全なる爺さんたちのものの見方、懐かしいといえば懐かしい。
帰宅して歯を磨いていたら、サエから電話で明日行ってもいい?いいとも。
起きようとしたらふらつく、そうだよ、アンだけ飲んだんだから、今頃足に来てやがる。
しまった、こんやはサエたちが来るんだ、たらふく飲むんだが、でえじょうぶか。
横になっていたら、「疲れがでたのか風邪を引いたらしく、また日を改めて」との知らせ。
がっかりしつつもホッとする。
蔵書の意義とは何かという問いかけを中心に、私がささやかな蔵書持ちであった四十年間に、供給源たる出版界や古書界はどのように変質したのか、多様化する社会のなかで個人蔵書をどのように位置づけるか、さらに既存の蔵書をどのように活用すべきか、といった問題をもあわせて考えて、、我が蔵書との半生をしみじみふりかえりつつ、面白くもほろ苦い思いも味わいつつ読んだ。
ほろ苦い、というのは
私は親しくなった(神保町の古本屋)店主から、毎年夏休みになると地方の中学校からリュックを背負った教師がやってきて、勉強のための本をどっさり買っていったという話を聞いたこともある。その教師は棚の前に立つと「ああ、勉強しなければ。勉強したいなあ」と胴振るいしながらつぶやくのが常だったという。(略)長野から東京に出てきてすぐに生協で校章入りのナップサックを買って、神保町に行き、手当たり次第に古本新本買い込んで寮の机の上の本棚を埋めて、胴振るいするような気になった。
十何回か夏が過ぎ、年中行事のように通ってきた教師も定年になったのか、姿を見せなくなった。その頃から世の中は変わった。
もっとも、そのあとすぐに巷に出て、酔っ払って帰ってきたのだった。
いつもそう、そうしてとうとう勉強しないままに今となってしまった。
そして「いつかは」これらの本を居心地の良い部屋にずらっと並べて、ゆっくり読もうと思っていた本(百科事典や全集類も含めて)をトラック二台分(広くもない社宅のどこにあったのか)を処分したときの寂寥感と解放感。
「いつか」は来ないのだ、と腹の底から観念した永訣の朝だった。
戦時中に日比谷図書館の蔵書が学者などから買い上げた本を含めて40万冊を西多摩郡田西村の土蔵などに疎開した話には胸を打たれる。
木炭自動車ですら調達できない中で、都立一中などの学生が背負ったり大八車を押したりして悪路(雪も積もった)をときには五日もかけて運んだという。
江戸川乱歩がどのように蔵書を増やし、守り続けたかを詳しく紹介して
何よりも乱歩の蔵書は創作に劣らない”業績”である。作家の全体像を窺うには蔵書に如くものなし。その蔵書を(散逸させずに)守るということは文化を守ることであり、蔵書の第一の意義がここにある。と書いている。
文化?どこにある?
お誕生日おめでとうございます♪
そしてお孫ちゃんもおめでとう!!
これからどんな未来を歩むのか、想像するだけで私は楽しくなります。
もちろん、辛い事も哀しい事も含めて。
こちらはもう色々経験済みだから、後はゆっくり恐山に向かって歩むだけ。
それでも今は、本を読める目もあり時間もある。
だから大切に過ごしたいですね。
やおらたんすの引き出しを開けて見せてくれて…
引き出しの中には本がびっしり詰まっていてびっくりしたことを思い出しました。
すっかり忘れていた懐かしい記憶、思い出させてくださってありがとうございました。
そして、
お誕生日おめでとうございます、ますますお達者で!
地方からの同室の寮生5人同士、本棚の中身を競っていました。
ちゃんと読むわけではないのですが。
作り付けの木製のベッドと机、その上の本棚に壁際の収納棚、それだけが家具でした。
一生涯使える、元気のない方を励ましたくて個人で作ったとあります。
カミさんが病気になった時頂いたもので、もう5年近く毎日めくっています。
表は木版画、うらはイラスト、とぼけていて楽しいです。
まだまだお元気な証拠ですね。
あなたは原発の反省をしなければとおっしゃっていましたが、本を読まないでどうしたら過去の反省、しかも原発問題みたいな社会経済歴史物理、、いろんな分野の知識や事実を探索しなければ問題のありかも見えない問題の反省なんて、私にはとうてい考えられませんよ。
こんな酔い方は怖いです、加齢のせいかな。
わたしは佐平次さんから見ればおそらく「反・知性主義者」だと思います。
なにが「事実」でなにが「真実」であるのかは、いくら学んでも到底人間には知り得ないという考えだからです。
バートランド・ラッセルは、最晩年に「生涯を掛けて研究・思考した結果、神は存在しないという結論に至った」と言っています。けれどもそれは普遍的な「事実」であり「真実」でしょうか?
わたしは不可知論者であり懐疑主義者です。真実はすべて「藪の中」=(『羅生門』の原作)だと思っています。
ただわたしは、好き嫌いの問題として、つまり絶対的に「主観的な問題」として、社会の問題と対峙する以外にないのです。
そこで 「勉強したい」 なんて思ったことは、一度もありませんが (^^;
人間は謙虚でなくちゃとも思います。
でも本を読むのが好きで、そこに書いてあることをすぐに信じてしまう、私の方が知性がないですね^^。
体調不良はわたしのコメントのせいかと気を揉んでおります(苦笑)
とはいえ、いま、この国に生きて、全く屈託のない毎日を送れるということがそもそも普通じゃないですよ。
朝日の記事、ひどいですね。この調子じゃいざ戦争という時になると「見よ我が国の底力!」とか書きそうですね。
個々人はともかく、現在マスコミはオリンピックの名のもとに挙国一致ですね。誰かが言った「およそオリンピックと戦争には反対したことのない我が国のマスコミ・・・」という言葉が思い出されます。
今日のような投稿、個人的には好きです^^