佐川・麻生・安倍やめろ納税者一揆から能「熊野」に
2018年 02月 17日
麻生はにやけた答弁するな亡くなった野中を公然と「あいつは部落民だから総理なんかに出来ない」と発言したあの男、今もニヤニヤしているだろう。
ここで怒りの声をあげている人々なんか、彼やアベの認識ではその声を聞くべき国民のなかには入っていないのだ。
アベの逃げ切りは許さない モリカケ食い逃げ許さない国税庁(財務省)前のデモに参加した。
出て来い佐川!
というわりには大人しい、でも舐めるなよ!大人たちの内に秘めたる怒りは怖いぞ。
野党議員たちが文書を携えて佐川長官に会いに行ったら”陳情担当”の地方課長が対応したと森ゆう子が怒ってた。
佐川は税務署をまわっているってほんとかい。
集会の後、鍛冶橋まで行進があったけれど、捻挫の後を大事にして失礼、テイクさんは歩いているのだろうが。
夕方から能楽堂で「熊野」を見る間、銭湯にでも入ろうかと思ったら、かつて近くにあった銭湯がみんななくなっている。
一刻も早く金融緩和をやめないと日本は破滅する、今だって路線変更に伴う痛みはあるけれど、今なら致命傷にはならない(かもしれない)。
おりしも国会では黒田総裁の続投が決まる。
株高、円安なんて一般国民・実体経済にはほとんど何の役にも立たないどころか物価が上がっていいことなんかありゃしないのに、その継続を求めてふわふわと政権を維持しようとする、こうなりゃ、これは国賊に均しい。
カフェオレの苦いこと。
熊野、松風に米の飯能の「熊野(ゆや)」と「松風」は米の飯のように何度見ても飽きの来ない名曲とされている。
「松風」は見たことがあるが、「熊野」は初めてだ。
平家のお坊ちゃま・宗盛は遠江・池田の宿の主人・熊野を愛妾としていたが、その熊野の老母の病が篤くなって娘に帰ってきて顔を見せてくれと言う手紙を届ける。
その手紙を宗盛と熊野がひざまづいて「諸ともに」声に出して読む。
切々たる文章、だがお坊ちゃまは我がままだ。
花見の友として一緒にいろ、と帰るのを許さない。
舞の途中で村雨が降り、花を散らす。
熊野は舞いをやめ、
いかにせん都の春も惜しけれど馴れし東の花や散るらんと短冊にしたため宗盛にみせる。
同じお坊ちゃまでもアベアソたちとは違って宗盛は、心を打たれて「疾く疾く帰れ」と暇を出す。
冒頭、橋掛かりで手紙を届けに来た朝顔と熊野がス~っと擦れ違っていく、たったそれだけの動きが作り出すただならぬなにごとか。
宗盛と熊野が声を合わせて手紙を読み上げるところ、声も美しい。
牛車の作り物なかに熊野が立ち、そのむこうに宗盛、少し下がって従者、その三人が全く動かずに京都の町を清水に向かう。
シテと地謡が移りゆく景色を、連なる山々、賀茂川の流れ、流れる雲、音羽の山桜、東山、四条五条の橋の殷賑、車大路、六波羅の地蔵堂、愛宕の寺、六道の辻、鳥辺山、、と歌い上げていくと、それに喚起される景色のイメージが後ろに動いていくような感じ、そうするとこんどは三人が前に動いていくような感覚に囚われる。
映画で言えば走る列車内の人物の視点で外の景色を見たり、外から車内の人物を見たりするようなものか。
ははあ、さっきの橋掛かりの行き違いの動きは、この感覚を誘うための仕掛けだったのか。
狂言「瘠松」
間抜けで不運続きの山賊が女の一人行くのを襲うが、逆に長刀を取り上げられて獲物を採り返されたばかりか腰の刀から上着まで取り上げられ、頭巾とって顔を見せろなどと愚弄される、わはは!
真っ直ぐ帰って納豆そばを作ってもらって断酒。
今朝、今ごろのチョコレート、カミさんが貰って来たと、半分は自分で食べる気だ。
ニュースでやっていました。
国民の声、
届かないですね。
由々しきことです。
やっても無駄、なんぞと思わず、倒れても起き上がり打ちのめされても立ち上がり続けて行くしかないかなぁと思っています。沖縄の人たちの長い闘いの歴史を考えればまだまだだと。
「能は死ぬほど退屈だ」と放言したフランスの誰やらが見たのは「熊野」だったそうです。
私も二年前くらいだったら面白いと思わなかったかもしれません。
そうですね、それが権力との戦いなのでしょう。
簡単に勝てたらそれはたいした戦いじゃないってことでしょう。
沖縄の人たちに笑われる私の戦いです。
その後の銭湯がなくなって残念でした。
何でまた黒田さんなの。人材がそれほど枯渇している?
嬉しそうににやにやして登場。どれほどの事が出来るの。
鳩森神社、コーラスで行くことがなくなって久しく懐かしいです。
誰のために何をしようとしているのでしょう
人を人と思わない人たちとの国会 議論にならなくて
国民は集団声を上げて行くしかないですね
問題だらけの我が国 ひとつづつ正面から向き合ってほしいです
で、米の~は、能楽師にとってのオゼゼになる番組と解釈していました~。確か、友枝師のセミナーでも。それくらい年に何回も演ずるころがあるくらいで・・と。あきない・・・その意味もあったのですねー。
よかったなあ、あのすっと行きかう橋掛かり、三人が立ちつくしながらも動いていくかのような清水行。
なるほどまた見たくなりました。