「自由」であること
2017年 11月 25日
早朝の浅草が時と共に見慣れた街に変化していく様子など、、わくわくしただろうな。
しっかり旅行支度をして見知らぬ遠くの町に旅するのもいいけれど、帰ろうと思えばいつでも帰れるような隣りの町でひとり朝を迎えるってのには、妙に心弾むものがある。
なにかが起きそうなワクワク感がある、実際は何も起きないのだけれど。
「泊っていったら」と言ったママが「じゃあ、火にだけは気をつけてね」といって帰っていったのにはちょっとがっかりしたが、白々夜明けの銀座を二日酔い寝不足のぶさくれ頭で歩くと、ゴミの山や汚れた建物が多く、違った世界に来たような感じがして、それが面白かった。
胡乱亭さんの真似をしようかという気持もあるけれど、二の足を踏む心持もある。
サンチの世話はカミさんに頼むとして、薬を持っていない、パジャマ、枕、枕元のラジカセ、着替え、、「いつものように」が突然なくなることの戸惑いと居心地の悪さ。
銀座で着の身着のまま寝ころがって、歯も磨かずに町を歩いた僕は遠い昔の僕になってしまった。
アベがトランプとゴルフをし、佐川が長官室でふんぞり返って、昭恵夫人が楽しそうにしゃべくりまわっている間、不自由をしのんでいる。
一泊とは言え警察の留置場に入れられたことのある僕には4カ月なんて気が狂うようだ。
不自由な一泊でも銀座のバー二階の不自由は自由の謳歌だった。
渡辺は社会主義は資本主義に敗れたのではなく「西側先進国の高度な消費社会をひたすらに求める大衆の声」によって崩壊し、「西側諸国に溢れかえっているバイクやオーデイオ機器や若者フアッションやロック音楽や美食やにつぶされた」といい、自由主義論客は、「自分たちが地球まるごとこの(効率的経済という)化け物に呑みこまれる日の前祝いをしている」と指摘、
すべての抑圧を解除し、個人の遊動的自由に最大の価値を置く今日の文明は、なるほど利便と長所をそなえた「開かれた社会」であるだろう。だがそれは、存在の一切の意味を無化する虚無の遊動に対して開かれた文明でもある。自由な市場経済が保証する高度消費文明の行手に待っているのは、単なる環境破壊でも資源涸渇でもなく、心の荒野なのである。
人間は美食して好きにふるまうために、この世に生まれて来たわけではない。言論の自由も生活の利便ももっとほかの何ものかの手段にすぎない。人は何のためにコスモスに生を享けて来たのかという古い問いの前に、自由社会の勝利は色褪せるであろう。
散歩に出たら曇ってきていつもの木の色がくすんだのは残念だったが。
高度な消費社会をひたすらに求めた結果、浅草で一泊、という次第になりました (笑)
心の荒野も、まっすぐに突き進めばいずれオアシスに突き当たる・・・ と信じたいものです。
このあたりのことを短篇に仕立てるのがうまいヒトがかつては文壇にいました。三浦哲郎、山口瞳、神吉拓郎・・・
日常に潜むかすかな非日常を淡々とドラマ化することの名手たち。
実際は何も起きないのだけれど、なにかが起きそうな気がしたのでしょう。何か起こしてやろうと思ったのでしょう。
それでもカミさんに心配かけてはいけないので「今日、家出する。明日帰るから」って言いそうです。
妄想ではないか。
工事は深夜に行われ作業が終了するころには空が白んでましたが町の変化を感じる余裕はありませんでした。
強いて挙げるならお弁当屋さんが早朝からやっていて、そこの揚げ物がアツアツだったということぐらいです。
友人が退職したら20日間、一人でさまようことをカミさんの許しを得たと嬉しそうに言っていたのを思い出します。
私も一泊だけでしたが、それにしても未だまだ容疑者に過ぎない国民にたいして60日とか4ヶ月とか、あのおそらく昔と変わらない留置場に拉致しているんですから、北朝鮮の独裁者とおんなじですね。
「行き過ぎた個人主義」という言葉を東京新聞で見つけました。自由主義も社会主義も正に「行き過ぎた個人主義」だと思います。