雨が止んだので上野で文楽と運慶
2017年 10月 18日
途中で前の人に断って、目の前のスタバで早いランチと熱いコーヒーを飲む。
テラスでホットドッグを食ってると物馴れた雀たちがたくさんやってきた。
「万才・関寺小町」
枯れ木の花の美しさを感じる。
こうして生きつづけるのも恥ずかしいと、よろよろと帰っていく。
おりから雨も止んで鴉が鳴いている。
笙の音も哀しい。
豊竹睦太夫と野澤錦吾による「文楽入門解説」があって休憩。
どんな美しい女も(男も)心の中に飼っている鬼、一瞬にしてその鬼の顔になる人形。
渡辺綱と鬼女の激しい立ち回りが愉しかった、映画「アウトレイジ」のヤクザの銃の打ち合いよりも。
終わってカーテンコール、これも楽しい。
運慶の父親・康慶の作品から、運慶のおもな作品を制作順に並べ、湛慶・康弁などの息子や影響を受けた仏師たちの作品までをあつめた迫力のある展覧会だ。
大きな像が365度ぐるっとみられるのもいい、後ろ姿や横顔にどきっとするような真実が感じられる。
国宝や重文だらけで、どの一体をとってもじっくり向き合うに足りる傑作ばかり。
長谷川宏「日本精神史」に運慶を論じた章があった。
そこに取り上げられている、無著菩薩立像と世親菩薩立像が、四天王立像に囲まれてお立ちになっていた。
人間であることの誇りを感じさせる堂々たる姿、それは人間でありながら時空を超えて存在する、あたかも周囲の四天王を従えるかのごとき、物柔らかな静かな威厳を身にまとっていた。
こうして拙文を書いている瞬間にも上野のあの部屋にお二人は生きているような気がする。
同じく長谷川宏「日本精神史」に触れていた重源上人坐像にお会いできたこともありがたかった。
86歳で亡くなる直前の姿だというけれど、行いすました静かな僧ではなくて今もなお何ごとかをなさんとする気迫、「いまにもお説教されそうだな」と囁く人がいた。
他の仏像にも言えることだが、運慶の作品はどれも今しも動き出したり口をききそうな生命力を感じさせる。
高山寺から持ってきた「神鹿」と「子犬」が可愛かった。
盛りだくさんでしたね。
それにしても人形ってよく出来ていますね。
運慶はテレビの特集で二度ほど見ましたが、見れば見るほど本物に会いたくなって。
いつか機会があることを願っています。
しろいし・・・・・髭面のぐい呑み大きそうだな~。