月はなんでも知っている 狂言「月見座頭」&能「小督」@国立能楽堂
2017年 09月 17日
だって安倍政権は解散総選挙を企んでいるようだもの。
ガセにせよ、そういうことが云われることの自民党政治家の軽さ・無責任、臨時国会だってずっとほったらかしだ。
肉だけ、少しづつ少しづつ食べてもらうと、おいしい美味しいと二切れのほとんどの肉を食べた。
義母の肉フェスだ。
残りの皮とご飯を僕が食った、垂れをたくさんかけて。
内田百閒はうな丼の鰻は捨ててご飯だけを食ったという。
僕もやっと百閒、いや皮を食ったから五十閒くらいか。
カミさんや義兄夫妻は施設の用意したお弁当を食べていたが、申し訳ないけれど僕の方がうまそうだ。
義母にも一応施設のお膳が用意されていたが、そりゃあ、ダントツ、鰻の方がいい、最高!だったよね、お義母さん。
施設の人たちが力添えをしてくれて我がことのように喜んでくれた。
「月見座頭」は2006年12月、茂山忠三郎(4世2011年逝去)の座頭、善竹十郎の上京の者で観た、それが能楽堂初体験だった。
その時能「邯鄲」も観世清和と宝生閑(2016年逝去)も観たのだ。
今、当時の豪華な出演者を見ると、もうぜったいに見られない。
その後見た「月見座頭」は、2015年7月に座頭・大蔵彌太郎、上京の者・大蔵吉次郎と2008年3月、座頭・千作(2013年逝去)上京の者・千之丞(2013年逝去)。
これも見てよかった、間に合った名人たちだ。
やっぱり恋は盲目、情熱の限りを尽くして追いかけよう。
盲目の座頭が、月は見えないから、せめて虫の音を聴こうと杖を引く姿は哀しくも美しい人間のありようだ。
能「小督」も名月がなければ成り立たない曲だ。
高倉帝の寵愛を受けていた小督が中宮が清盛の息女であるのに遠慮して嵯峨野に籠ってしまう。
帝は源仲国に小督を探して来いと命じる。
嵯峨野の片折戸をした(粗末な)家としか情報がないが、名月の夜はきっと琴を弾じるだろうと、それを頼りに帝から拝領した馬を御していく仲国。
直面(能面をつけない)で、馬に乗っているようすのシテ、やがて案の定聞こえてきた琴の音は「想夫恋」(黒田節でお馴染み)、仲国は小督にあって帝の手紙を渡すことができ、「男舞」を優雅に舞う。
哀しいと言えば哀しい曲だが、皓皓たる月明かりに照らされての男舞を見ていると、「すべては月が・宇宙がみそなわす生きとし生けるものだ」という気持がわいてきて、悲壮な感はなかった。
座頭は
(さっきの上京の者はいい人だったに、今の男は情けのない奴だ)小夜ふけわたるこの野辺に、ひとり我のみ泣きにけりと嘆き、クシャミをして終わる。
これも「月が見ている座頭」だ。
国民には危機感を煽って、こっそり解散の準備。本当に危機なら国会解散なんてできませんよ。
まったく、どこまで腹黒いんだか。
私は子どものころ目と鼻の先に米軍機が墜落して近所の親子が亡くなったのをこの目で見ています。
オスプレイの配備と同等かそれ以上に北朝鮮のミサイル実験は深刻な脅威です。
株が下がらないのは政府の大騒ぎのからくりを見通しているからでしょう。
その化けの皮がはがれたのが解散総選挙論です。
山本家や千作さんのやるのと違う意味を見つける、いかにも哀れな座頭を前面に出すのではなく、哀れさもあるが、偏屈なところも持っている、そういった一人の人間の多面性を演じる、、といってます。
チャンスがあれば見たいです。