行かなくちゃ 三浦しをん「あやつられ文楽鑑賞」
2017年 06月 19日
そこでサインしている間じゅう、遠吠え「戻ってきてー」窓際で吠え続ける。
誰もいない留守にもこうしているのだろうか。
「赤川次郎の文楽入門」も面白かったけれど、こっちの方がもっと面白かった。
楽屋訪問などをミーハー的に紹介しながら知らぬ間に文楽とはどういうものかと、即物的唯物的に教え、やがて唯心的に文楽の(歌舞伎と比較したりして)神髄に迫る。
『仮名手本忠臣蔵』を通しで見る、ってこの俺も去年それで文楽に取りつかれたばかりなのだが、それを思い出させる観劇記が傑作だ。
「バカ殿にでも忠義を尽さねばならなかった武士とは何であるか」アベ侍たちは己の欲で身動き取れないのだけど。
「短期で浅慮な主君を持つと、ホント苦労するんだよね」と大星由良助はぼやく(内心)けれど、その由良助はいつも登場が遅い、もうちょっと早く出てくれば何とかなったのに、俺もそう思ったことが何度もある。
落語のマクラでも忠臣蔵はしょっちゅう冷やかしのタネになるけれど、それは由良助が読んでいる手紙をおかるや九大夫が覗き読み出来るはずがない、みたいなトリビュアルな揚げ足とりなのに、三浦は登場人物の性格分析(おかる勘平の軽さとか)やときどきの心理を(鋭くも)面白可笑しく読み取って、あたかも三浦の隣で一緒に最初から最後までワクワクドキドキしながら観ているような気にさせてくれる。
『桂川連理柵』『女殺油地獄』も同じような楽しい体験をさせてくれる。
ここらあたりの文章は、実際に文楽を観なくても、時には観るよりも面白い。
それは松王丸夫婦の悲しみが、じっくりと描かれていたのと、松王丸夫婦が深い愛情で結ばれていることが、人形の動きと眼差しから感じられたからだ。
「この二人が、我が子を身代わりにと決意した、その思いはいかばかりのことであったか・・(詠嘆)」と登場人物の心情がこちらの胸に迫ってくる。
この機微は、人間が演じても嘘っぽくなってしまう危険性が高い。大夫、三味線、人形によって、人形に本当に命が吹きこまれたときにだけ表現できる、純度の高い悲しみと劇的高揚なのだ。私はこれをひそかに「文楽マジック」と命名している。ああ、マジックにかかりたい!
生身の肉体を持たぬ「人形」というワン・クッションを通すと、人間の演技では表現できないなにかが、純粋に形になる瞬間がある。後から考える「解釈」は消滅し、人間には表現しきれないモヤモヤしたものが、純化して舞台上に残るだけ。
人形は器だ。器である人形には、後付けの「(殺人の)動機」なんかないのである。大夫、三味線、人形さんに、言葉と音楽と動きを与えられ、その一瞬一瞬を生きるだけだ。人間だったら、前後の感情のつながりを考えながら演じなければならないが、人形は「時間の呪縛」から自由だ。感情や言葉から解放されている人形は、余分なものを削ぎ落し、「殺人の瞬間」すらもただ生きる。
能面とどこか通じるのだろうか。
逢いに行く人もいないけれど、歩きたかった。
>逢いに行く人もいないけれど、歩きたかった。
そんな気分の時、あります。井上陽水の「傘がない」、以前から好きな曲です。
白い葉のある写真、半夏生でしょうか。
見に行きたいと思っています(^^
ならば、読みましょう。
三浦しをんさん大好きです。
一つは、古本屋さんのこと。
たまの休みに町田の高原書店という古書店に行きます。
結構大きなお店で、見ているだけでも一時間から二時間あっと言う間。
実は、三浦しをんがしばらくアルバイトしていたお店。
だから町田が小説の舞台になった作品で一躍有名になった次第。
そして、もう一つは映画の舞台のこと。
あの「舟を編む」の居酒屋でご一緒したことも、懐かしく思い出しますよ。
男が主人公だったような気がします。
居酒屋放浪記でしたっけ、もう何年たったのでしょう。
あの頃は元気だったといい続けているなあ。
歌舞伎の中では現代からすれば理不尽なことが可成りあるのですが、生身の役者が演じているとそこに気を取られてしまう事があります。
その点、文楽ではそうした事を全て忘れて、舞台に没入できるような気がします。
次回、国立での9月文楽公演、楽しみにしています。