自己否定の旅で自分を解放しよう つげ義春「貧困旅行記」
2017年 06月 03日

世の中の関係からはずれるということは、一時的であれ旅そのものがそうであり、ささやかな解放感を味わうことができるが、関係からはずれるということは、関係としての存在である自分からの解放を意味する。私は関係の持ちかたに何か歪みがあったのか、日々がうっとうしく息苦しく、そんな自分から脱(の)がれるため旅に出、訳も解らぬまま、つかの間の安息が得られるボロ宿に惹かれていったが、それは、自分から解放されるには”自己否定”しかないことを漠然と感じていたからではないかと思える。貧しげな宿屋で、自分を零落者に擬そうとしていたのは、自分をどうしようもない落ちこぼれ、ダメな人間として否定しようとしていたのかもしれない。
シュテルナ―の「唯一者とその所有」は読んだことがないので孫引きだが、
「完全な自己否定は自由以外の何物でもない」
ということばに私は納得させられる。自分を締め付けようとする自分を否定する以外に、自分からの解放の方法はないのだと思う。

山陰の海っぺり、トラックがガンガン走っていくような道路に忘れられたようにたっている居酒屋で、忘れられたようにして生きている女がけだるく出してくれる酒を呑んで黙っている。
そんな旅をしたくてぶらり旅になんどか出たがそんな居酒屋があったとしても(まずない)、そこにたどり着くには車がなければどうにもならないし、車では酒を飲めない。
でもこの間、伊那で一泊2200円の宿に泊まったし、その前は名古屋駅裏で4000円の宿、そうでなくても大体6000円前後の宿だから宿賃だけで言えば、少しはつげ門下生と認めてくれるかな。
飯田の居酒屋でジモティとカラオケで盛り上がったのなんかは、自己否定願望が中途半端だと言われるかも。
はい、修行します。

ぼくも行ったことがある(つげのように泊まったわけじゃない)のは、大原、冨浦、湯河原、箱根、鎌倉、伊豆松崎、養老渓谷、八幡平蒸けの湯、大多喜、会津只見、湯野上、、。
つげさんには遠く及ばない。

彼が夢中になって旅行した昭和40年代にぼくは旅らしい旅をしていない(出張ばかり)。
本書を読んだり見たりするとその頃はまだ味わいのあるボロ宿があったのだなあ、となんだか損した思いがする。

この本持ってます。鄙びた街の旅館を旅する。つげ義春・・大好き!
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> ginsuisenさん、もう一度マンガを読んでみようかと思いました。
少し体調が戻ってきたので、こんな旅がしたいなあと思っていました。
この本読んでみようかなあ。
この本読んでみようかなあ。
僕はの旅のお供はやはりバッハの「マタイ受難曲」でしょうか。
少し自己劇化し過ぎかなあ…
少し自己劇化し過ぎかなあ…
by saheizi-inokori
| 2017-06-03 09:53
| 今週の1冊、又は2・3冊
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Comments(10)