なかったことにしたいでしょうが 堀田善衞「時間」
2017年 04月 24日
済んだこと、ましてやっちゃあいけないこと・屈辱的な出来事も枚挙にいとまがないような過去をもういちど思いだしたくもない、誰が悪かったかなんてもういいじゃないか、みんな頑張ったんだもの、記録に残すなんて!忙しいしな。
ぼくは早朝出勤して反省会をやろうといったのだ、嫌われるわけだ。
日本だけを除いて、既に全世界の新聞がNankingRapeとかMASSACRE(マサカー・大虐殺)とかいう風に、固有名詞化して、日本軍の南京暴行虐殺事件として報道している、あの一切の人間的規範をふみにじった、嗜虐症的な行為(本書)を南京にいて妊娠中の妻や幼子を虐殺されたインテリ中国人を主人公にした、つまり被害者の目で見た小説だ。
1955年に本書が刊行されたときは、南京事件が事実起こったことを疑う人は限られていた。
それが今や「自虐史観」批判が横行「南京大虐殺はなかった」「中国への侵略はなかった」と正気で言い張る人が総理大臣や内閣のほとんどを占めるようになった。
子供たちにも教えなくなった。
教育勅語を奉じる陛下の兵たちによってなされた蛮行をなかったことにして、否定されたはずの教育勅語が復活する。
数は観念を消してしまうのかもしれない。この事実を、黒い眼差しで見てはならない。また、これほどの人間の死を必要とし不可避的な手段となしうべき目的が存在しうると考えてはならぬ。死んだのは、そしてこれからまだまだ死ぬのは、何万人ではない、一人一人が死んだのだ。一人一人の死が、何万にものぼったのだ。非核化、懲らしめる、どんな目的があっても一人一人の命の重さは変わらない。
見える過去と現在を起点にして見えない未来のあるべき姿に向けて歩いて行く。
その過去が歪曲されたり消し去られたら、いったい人間は何を基にして歩いて行けるのだろうか。
酸鼻を極める描写があっても読まれなければならない。
人の死を数値としてしか感じられない人たちがのさばっているのだから。
岩波現代文庫
白黒の時代。木に人の頭がいっぱいぶら下がっていて、その前に立つ若かりし爺さん。
人の中に潜む残虐を見た。誰にでもあるんやと思うが、どこらへんで人はそれを制御出来るのか?
断片的にいろんなところでいろんな人が話していた
いつ頃だったか300万人もの犠牲になった人たちのおかげで
今自分は生きている・・・・と言われ胸にズーンときたこと
その時の事は忘れません
あれもこれもいつのまにか無かったことにしてしまうだなんて
ひどい話です よく言われたものです
罰が当たるって・・・・・・
⇩の記事 漱石先生は全てお見透しでした さぞかし今の世を嘆いておられることでしょう 今年生誕150年ですね
現在進行中のことでも偽造でっち上げるのですから、関係者がしゃべりたがらない、死に耐えつつある南京事件をなかったと言い張るのは造作もないのかなあ、あいつらには。
百人斬りも南京大虐殺も、事実が被害者の人数の違いにすり替えられてています。問題は中国人を沢山殺したことが当時の軍の中では自慢話であり、それを嬉々として記事にしていたマスコミがあったという事が重要なのです。
ヘイトスピーチやネトウヨの罵詈雑言がマスコミにまで蔓延、政治家たちの教育勅語復活待望、いよいよもって戦前回帰です。
北朝鮮の脅威も作り出されたし。