今も続くぞ女性差別との戦い 映画「未来を花束にして」
2017年 02月 03日
朝の海外ニュースであの男や彼の女の顔を見ると灰色から黒ずんでいくようだ。
世界を鬱病に引きづり込むあの男と彼の女。
ユイの高校で希望者がこの映画をみて、映画の陰の主人公エメリン・パンクハーストのひ孫の講演を聴きディスカッションをしたことが朝日新聞に載っていた。
ユイも写真に載っているそうだが、ぼくには見分けがつかない。
老いては孫に従え、ぼくも新宿へ、末広亭に入らず映画館へ。
ここは昔地下にアートシアターギルドがあった。
調べてみると「オルフェの遺言」「おとし穴」「ウンベルトD」「野いちご」「アレクサンドル・ネフスキー」、、始まった年・1962年に上映された映画はよく見ている。
「僕の村は戦場だった」「第七の封印」「イワン雷帝」「去年マリエンバートで」、、その後も1965年くらいまではときどき足を運んでいるが社会人になってからはばたっとご無沙汰だ。
犯罪者(思想犯ではなく)として牢にぶち込まれ、愛しあった夫に離別され、幼子も奪われ、仕事も失くす。
追い出した妻のことを子どもに「ママは頭の病気なのだ」という夫、毎晩子どもに「陛下」の肖像に挨拶させる貧しい男なのだ。
周囲の女性も(男性は当然)冷たい目で忌避する。
政権は世論工作だろう、おためごかしに国会で女性の声を聞くふりをしながら、一方で活動家たちの尾行・盗撮、監視の強化、隙あらばとらえてスパイになれと迫る。
権力(=男性)は抵抗し要求する者(=女性)にどのように対処するか、その本質は百年を閲した現在にも通じる。
「共謀罪」「秘密保護法」、そんな言葉が映画に没頭することを妨げる。
言葉による抵抗を封じられたら集会・デモ、、力の行使に訴えるしかない。
それはどこまでが許されるのか。
法律の許容する範囲?
その法律を変えさせたいのだ。
秘密保護法反対デモのシュプレヒコールをテロと言い放った石破幹事長(2013年当時)の発言は失言ではなく権力の本音を表している。
要は権力がなにを合法として許すかを決める。
電話の盗聴によって共謀罪の適用もあるとしたら、力を行使しなくても違法とされる。
この映画を「テロの薦め」と見るか、それともあまりにも苛酷・理不尽な権力はテロを生むと見るか。
そんな事例を引き合いに出すまでもなく、このぼく自身が女性差別のゴリゴリだった。
戦いは継続中、ユイもがんばれよ。
メリル・ストリープ演ずる指導者のひ孫さんが来日して、講演して、saheiziさんの高校生のお孫さんたちがディスカッションされたのですね。高校の先生たち、ちゃんと教育しておられますね。地味な映画でしたが、見終わったお客さんたち静かに考え込んでいる風でした。キャリー・マリガンは好演していました。
私はほとんど今に重ねてみていました。
ユイは夫婦同士でも差別があるなんて、、ショックだったとメールくれました。
息子夫婦だって女性差別はないわけじゃない、いつかユイも気が付くのでしょう。
以前読んだ「田中カツ~田中正三の妻と明治の女たち」に、封建制度に反対し女性の権利を主張し運動を起こした女性たちのことが書かれていました。足尾銅山鉱毒事件で農民の権利と生活を守るために先頭に立って闘った田中正三でさえ、人間としての権利を主張する女性に対して「家庭を破壊する考え」と日記に書きました。現在に至っても意識しているのかいないのか、女性に対する差別意識があるなと感じる男性に出会うことがあります。政治家なんて堂々と差別発言をして慌てて取り消す輩も多いですし、ね。差別とも思っていないのでしょう。
ユイさんは若い時期にいい映画を鑑賞して講演を聴き討論をするという、羨ましいほど素晴らしい経験をなさいましたね。
話し合うこともなく当然のことだと。
そのために亡妻(素直に従った)がどれだけ社会に貢献できたはずなのに、私のようなあほらしい男が、、。
ったく泣きたくます。
ユイはいい教育を受けているように思います。
機会をとらえて心を開く。
それは台湾の学校で受けた教育の影響もあると思うのです。
どれだけ教育が大事かとつくづく思います。