”志”の喪失 それでは何をやっても空転だ

JR西日本の井手・元会長が論座12月号に尼崎事故に関する反省の弁を書いている。去年事故の責任を取って取締役相談役を辞任した。

国鉄改革により赤字体質から脱却し安全についても最善の努力を傾注してきたといいながら「”親方日の丸”企業体質を脱しきれなかった」ことが事故の遠因だという。そして、彼が社長時代には毎朝6時半頃から現場を見て歩いたのに、後任の幹部たちに見せてきたつもりの”背中”が十分に伝わらなかったことを悔やんでいる。
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この記事について友人たちと話した。「部下たちが自発的に進んで早起きをして現場をみて歩く風土ってどうしたらできるのか」ということを言う奴がいた。

俺もある企業の責任者だったときは毎朝5時起きして朝の現場を見たり、早朝定例会議をしたり清掃をしたり・・井手さんほどじゃないかもしれないが頑張っていた。然るに今どうか、といえば既に俺の末期から早朝会議は開かれなくなってしまった。”改革=今までのやり方を否定して新しい価値を創り上げる”ためには意思決定の仕組みを変えないとだめだ。下からの積み上げを待っていたのでは何も変わらない。全ての問題点を最初から出し合い、方向を具体的に決めることがトップの責任だ。トップは何でも知っていなければならない。
そういうやり方以外には普通の会社は変われない。それを可能にする、しかも必須の方法が早朝会議だ。理屈じゃなくて毎朝早くから勉強をし議論をし現場を見ることだ。天才集団でもない限りそういうことをしなければ何もできない。

聖人君子でもオーナーでもない俺がそういう気持ちで頑張れたのは”志”があったからだ。「日本一の、どこにも無いようなSCを創るーそのことしか社員を幸せにする道はない」という志があるから倒れるまで頑張れた。保身なんて考えもしなかった。スタッフや関係者にいつも同じ視点でものが言えた。妥協するか否かは[お客様が満足していただけるか否か」というものさしで決めた。

一応のオープンにこぎつけ〈本当はオープン以後が勝負なのだが、それを理解する人は少ない〉、俺の更迭もささやかれるようになり新しいプロジエクトが別人により進められるとやり方も変わる。”志”は新たに創られたのだろうか?

友人の問題提起に対する俺の答え。

俺もそういう風土を定着できなかったという意味では失敗者だ。きれいなことをいえない。
ただひとつ言えることは「志=あるべき姿についての、トップと部下の合意が無ければどんなこともうまくいかない」。
いくらトップが早起きして見せてもご機嫌とり連中が表面的に追従するかもしれないが、志に裏打ちされていなければそれは無意味でむしろ無駄だと思う。
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現代日本は押しなべて”志”喪失の時代になってはいないだろうか?それに代わって”保身=既得権益の死守”が”欲望の更なる肥大化・充足”が大きな顔をしている。下流社会では”食っていく”ことが問題になりかけている。”改革”とは程遠いキーワードではないか。

上の写真は根来寺にあった弥勒菩薩。
Tracked from 建築家の育住日記 at 2006-01-20 11:21
タイトル : ホリエモンのこころざし、志なき時代の志
佐平次さんが「”志”の喪失 それでは何をやっても空転だ」をエントリーした。彼からは前日次のようなコメントをもらっていた。 「決して違法な経理処理や脱法を是認するわけじゃないですが、行ない澄ました顔をしているエスタブリッシュメントたちがそうきれいなことばか....... more
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by saheizi-inokori | 2006-01-19 23:46 | 梟のゴタク | Trackback(1) | Comments(0)

ホン、よしなしごと、食べ物、散歩・・


by saheizi-inokori