国家権力&メディア権力との戦い方 大西巨人「深淵」(上下)

麻田布満(あさだのぶみつ)、「まだ不満」とも読める主人公。
1985年7月、28歳で出張に出たまま行方不明になった。
その12年後、突然北海道の病院で目覚めた麻田、自分は昨晩遠く離れた西海地方の旅館に泊まっていたはずなのに、看護婦から「秋山信夫さん」と呼ばれ看護婦の妹から「おじさん」と呼ばれて、自分がおじさんになり秋山信夫になっていることを知る。
麻田は12年間忘れていた(?)麻田の生活を取り戻す。
妻は失踪宣告もせずに麻田が失踪後に生まれた子どもを育てていたし、尊敬する叔父や親友たちも喜んで迎えてくれた。
逆行性健忘症、すっかり忘れている12年間のことを自らは積極的に(何らかの事情で消極的・受け身的に思いだされるならともかく)思いだそうとしなかったのは、
<人生>とは、<記憶>である。人は、たとえ時間的に百年ほど生きても、そのうち六十年の記憶しかなければ、その<人生>は、六十年であり、、
とぼくの人生がほとんどなにもないような恐ろしいことをいう。
国家権力&メディア権力との戦い方 大西巨人「深淵」(上下)_e0016828_10505314.jpg
だが、そんなわけにいくのだろうか。

麻田は冤罪に問われていた部落出身の若者のアリバイにつながる・失踪以前の出来事を思い出し・立証する(善意・無過失であっても「歴史偽造の罪」を犯してはならないという固い信念に忠実に)ことで再審無実を勝ち取る。

偶然の邂逅によって、空白の12年のことが明らかになって来る。
そこにも麻田=秋山を愛した女性、恩師、友人たちがいる。
12年の間に左翼を標榜するインチキ新聞社の記者が殺人事件を起こして、新聞社は(事実はどうであっても)権力による弾圧=冤罪だと論陣を張っている。
ここでも秋山は重要な証人になり「パワーポリティックス的な行き方は”反体制の本道”とは裏腹な邪道である&歴史偽造の罪を犯さない」との信念のもと細心・丁寧な考察・調査を行い、彼のアリバイが成立しないことを(弁護側の期待・懇願・脅しに反して)立証する。
国家権力&メディア権力との戦い方 大西巨人「深淵」(上下)_e0016828_10523443.jpg
ミステリ的な面白さがなければかなり難解、慣れない人には読みにくい独特の文体。
ぼくは「神聖喜劇」などで慣れているから、かえってその論理性やペダンテイックなところも愉快だったけれど。

もっと大事な「何か」を探しもしない村上春樹批判、戦争中の言動に平気で口をぬぐう”過去への反逆”のない唯一の作家としての太宰治擁護、カフカ「城」(麻田はこの作品を記憶障害と関連づけて主人公Kと自分を重ねる)およびチエ―ホフの「犬を連れた奥さん」の最後の場面への度重なる言及、、引用される古今東西の詩句・警句・評語の(割合的には少ない”わかったもの”については)卓抜・飄逸、この人はユーモア作家かとも思うほど。
国家権力&メディア権力との戦い方 大西巨人「深淵」(上下)_e0016828_10513103.jpg
(今日はがぶりと食う、「栗饅頭はとくに怖い」から。)

麻田=秋山という人間ならびにその心友たちは、
現代のわれわれを強圧・支配する二大権力は、国家権力とマス・メデイア権力だ。
と認識する点で一致する。
さらに麻田はK・マルクスの
すべての社会生活は、本質上実践である。理論を神秘主義へいざなうすべての神秘は、その合理的な解明を、人間の実践のうちに・またその把握のうちに見出す。
と、G・オーウエルの
来世の不存在を承認しつつ、なおいかにして宗教的な精神態度を復興するかが、切実・至上の問題である。
と、G・ジンメルの
私の生涯を通じて、<私>とは、空虚な場所・何も描かれていぬ輪郭であるに過ぎない。しかし、それゆえに、この<空虚な場所>を充填するべき義務ならびに課題が私に与えられている、それが、私の<生>である。
という、ぼくにも少なからず肯定的感興を与える三つの言葉を自分の人生観、社会観、世界観ないし現実認識の肝としている。

そういう麻田=秋山が、どのように二つの記憶健忘症期間における二つの”冤罪”事件において国家権力およびメディア権力と戦ったか。
それがぼくに対して、そんないい加減な生き方でもいいのかと問いかけてくる。
国家権力&メディア権力との戦い方 大西巨人「深淵」(上下)_e0016828_10532045.jpg

光文社

Commented by テイク25 at 2017-01-26 18:02 x
がぶりと食べてまたまた栗饅頭が怖くなりました?私は冬季限定の酒饅頭がとくに怖いです。

「六十年の記憶しかなければ、その<人生>は、六十年であり、」という下りは頷けます。自分の記憶はどれだけあるのだろうか。なるべく思い出したくない記憶もたくさんあって、それも含めて人生・・・ああ怖い。

昨日のコンサート、出かけて良かったですね。音楽も演劇も落語もスポーツもなんでも生が一番でしょう。その場に居ると云うことは中々叶わないことですが、機会があれば逃したくないな。
Commented by sora at 2017-01-26 18:12 x
毎日saheiziさんが書かれる貴い記事と矜持。それでも
=そんないい加減な生き方でもいいのかと問いかけてくる=。
と言われる。 さて、私は。。
昨日の彼も頑張っていますね。 
「Youtube 2017年1月25日 参院本会議 山本太郎議員
代表質問 」一方、他議員達の下卑た態度には気分が悪くなり。
Commented by saheizi-inokori at 2017-01-26 21:42
> テイク25さん、そろそろ渋いお茶と言いたいけれど飲んでしまいました。
明日はまた栗、ああもうないんです。
記憶がない人生、麻田のように二度も逆行性健忘症になった場合、どっちも人生がないことになってしまうのかなあ。
思考実験を迫る小説でもありました。
生の音楽は音が違いますね。
落語は噺家と聴衆との合作です。
ああ、ナマがいい!
Commented by saheizi-inokori at 2017-01-26 21:45
> soraさん、大企業ファ―スト、己が権力ファ―スト、でんでん。
大家さんの義太夫より困ったものです、でんでん。
名前
URL
削除用パスワード

※このブログはコメント承認制を適用しています。ブログの持ち主が承認するまでコメントは表示されません。

by saheizi-inokori | 2017-01-26 12:47 | 今週の1冊、又は2・3冊 | Trackback | Comments(4)

ホン、よしなしごと、食べ物、散歩・・


by saheizi-inokori