色とカネが幽霊をよぶ 第578回「落語研究会」
2016年 08月 05日
固くなっているのか、落語研究会の客がどうたらこうたらおもしろくもないヨイショを猛烈な早口でくどくどとやる。
ネタに入ったら一応聴かせたのは稽古しているから、というのがIさんの感想。
まくらって気楽なようで難しいのね。
せんじつ横浜で小満んがやった「那智の瀧」と同じ、文覚上人誕生秘話を源平盛衰記でやる。
そりゃあ、小満んより笑いはとるだろうが、何度も聴きたいとは思いませぬ。
おや、茶碗が置かれた、いつからだろう。
座るとすぐに「気取ったことをやります、、じつは風邪を引いて途中で声が出なくなったときの用心に、、私は茶を噺の流れのなかにうまく取り込むことなんてできませんよ、、円生師匠のように、、」といいながらちょっと円生のご隠居がなにかいいながら茶碗に手を伸ばす風をしてみせる。
茶碗をつかうのは小三治と小満んと桃太郎かな、そういえば三人とも円生のように噺の小道具となるような使い方はしてないかもしれない。
風邪のせいか、旧臘さん喬との二人会でやったときより、あっさりと仕上げた(時々せき込んだのは気の毒)。
俺はこういう方が好みだ。
かけとりに行ったまま三日も家に帰らない蕩児、かんかんになっているオヤジの前で悪びれもせず、受け取った二百円をきれいさっぱり使ったその内容を説明する。
まず髭剃りに5円、ふつうなら50銭で済むのにというオヤジに、十二畳の角部屋、花魁の部屋着をひっかけて床几に斜に構えて、花魁が髭を湯でしたしてくれて、豆ドン(禿)がいて、百二十円の鏡があって、職人があたる、、よく言うよ。
でも俺もそんなことをしてみたい。
45円は「よかちょろ」に、これは今が買い頃安い買い物といえば親ばか甘ちゃんオヤジは相好を崩して「さすがは商人の子だ、してそのよかちょろはどこにおいてある?」。
おいてあるものじゃない、といって、とつぜん変な仕草付きで歌いだす。
ハー、女ながらも、まさかのときは、ハッ、ハッ、よかちょろ。主に代わりて玉ダスキ、よかちょろスイのスイの。してみてしっちょる、味よ見ちゃよかちょろ。しげちょろパッパッ。、、、これが45円。色っぽい歌詞だ。
オヤジはかんかん、後ろでお袋は大笑いして「いいじゃないですか、人様の金を盗んで遊ぶんじゃなくて店の金で遊ぶんだから」と言えばオヤジは「何をバカなことを、店の金は店の連中が汗水流して稼いでくれたもの、それを勝手に遊びに使うのは許せない」。
番頭(隅に置けないのだ)と若旦那のやり取りも聴かせどころだ。
相思相愛なのに新三郎が来てくれないものだから焦がれ死にしたお露、介護疲れで後を追った女中のお米が、谷中の墓から毎夜、牡丹灯籠を手にしたお米を先に立て、から~んころ~ん、下駄を鳴らして、恋しい新三郎のもとに通う。
「死んだというのは二人のなかを裂かんがための嘘、私たちは死んじゃいない」幽霊の足元も確かめず信じてしまった新三郎、夜ごとむつみ合う。
後見している易者・白翁堂勇斎が、それに気がつき、新三郎に「あれはこの世のものではない、お前は五日と持たずに死ぬという相が出ている」という。
白翁堂は懇意にしている新幡随院の良石和尚に相談、和尚はす死霊除けの海音如来という黄金のお守りと雨宝陀羅尼経というお経、家に貼るお札を新三郎に授ける。
寛永寺の鐘がぼ~ん、上野の山から風がご~、向ヶ丘の水の流れる音、から~んころ~ん、
来た!震えながら一心に経を読む新三郎、幽霊はお札が邪魔で入れない、「新三郎様は心変わりをなさった、でも私はあきらめきれない」。
新三郎の田畑や身のまわりの世話をしている伴蔵にお米がお札とお守りを取り除けてくれと頼む。
新三郎にもしものことがあったら我々は生きていけないと渋る伴蔵に「百両くれれば願いをかなえてやる」といえ、とそそのかす女房のお峰。
このあたりの夫婦のやり取り、うまかったなあ。
お峰が新三郎を無理やり行水させてその間に伴蔵が人形とお守りをすり替える。
お札をはがした高い窓をみて笑顔を見かわした二人がす~っと部屋のなかに消えました。
ここでさげて翌日の死体と白骨発見の場はカット。
お露、お峰、怖い女。
小池や稲田・丸川よりは可愛げがあるけれど。
隣りの若いカップルと幽霊談義。
部屋のなかに誰かがいる気配とか変な声が聞こえることがある、男がそういう、そうそう俺にも経験がある、いやあ!こわ~い、女が悲鳴、ほら、あなたの後ろ、それ誰、さっきからこっち見て悲しそうにしてる人、きゃあ、やめて!
といいながらママの握った大きなお握りを「美味しい美味しい」と食うのだった。
「これじゃ田舎の田植えだ」なんていうネタにしています。
百栄が圓生をまねるときも、湯飲みを飲む仕草を上手に裁ち入れています。
本人には申し訳ないが聞いてみたいものです。