せんじつの歌舞伎がいまいちだったワケ 三國連太郎・沖浦和光「『芸能と差別』の深層」
2016年 05月 28日
「しっかいと」を繰返すのかと心配したが官僚の作文をシッカリ読み上げたからそれはなかった。
「リーマン級の危機・リスク」はアベノミクスにある。
アメリカは利上げがあるよと念を押している。
オバマの車を一人佇立して見送るアベの後ろ姿が取り巻きがいないゆえかガードマンにみえた。
アニミズム、シャーマンに起源をもつ芸能が、仏教を国家鎮護の宗教とする権力たちによって特別な神事を除くと出番を失い、非人の仕事とされていった。
そのような人たちから、能・歌舞伎・浄瑠璃・大道芸・門付芸などが生まれた。
民衆の芸であって支配者たちの側から生まれたものではない。
反文化、下層文化、周辺文化だった。
怨念・憤怒・猥雑・怪奇・幽界・鎮魂、、。
官僚化した武家的儒教と腐り切った仏教が説ききかす既成道徳のなかで、ひそかに脱出口を求めていた民衆のひそやかな願い、かれらの欝々とした意識下にある何ものかを表現することに成功した能や歌舞伎。
権力のヒモがついて国家の庇護下に入り、お上から勲章やゼニを貰って喜んでいると、そこから芸術の堕落が始まる。
時代を主導する精神に疑問を抱き、既成の支配体制の矛盾を批判して、時代のあり方や人間の生き方を、飽くことなく追求していこうとする意欲―それをどう表現していくかという貪欲な意欲が、その時代を生きようとする芸人にとって本当に大事「スーさん」・三國はいう。
俺はせんじつ思い切って歌舞伎座にいった。
きれいではあったが、どうもそれだけ・ブロマイド的美しさという気がした。
ほれぼれする美しさの菊之助(あの日、ただ一人光彩を放った)ですら、「色悪」の凄みを感じさせない。
「鵺退治」の凡庸な”様式美”。
落語然り、笑わせればいいという軽い芸で表現されるものはクシャミ一つで吹っ飛ぶようだ。
軽さの底に鈍く光る何かが亡くなった噺家の多いこと。
「野巫医者」が正しい。
祈祷・漢方・鍼灸などによって貧しい民衆の医療にあたった在野の陰陽師系の医者をさした。
医者はもともと卑賤の者とみなされていた芸能者と同類に位置付けられていた。
竹取も賤しき仕事だった。
なかなか面白い対談だ。
ちくま文庫
ほとんどの文化は、貴賤の賤の側から産まれているのだと、実感します。能狂言の芸能はもちろん、華道や茶道など「道」の付く特殊技能、伝統的な〜といわれる手工芸は、山の民・道の民などの漂泊の人々の末裔のものなのだと思います。
先日終わった葵祭なども、斎王代や公家達の行列を護る隊列の芯になるのは、八瀬童子などの誇り高き山の人々です。祇園祭の八坂神社の神人もしかり。
京都ではそれが、善し悪しは別にして暗黙の了解になっているのですが、東京を中心とした近代社会では、三國連太郎のように闘う姿勢でないと表現者として自立しにくかったのではないか、とか、
以前、三國の本を読んだ時に思いました。
京都人の「いけず」も、貴の中の賤として生きる人々の自衛手段の様なものなのではないか、というのが私の密かな考察です。
東京だったか朝日だったか、新聞の劇評がべたほめだったので、わが感性が鈍ったのかと思いましたが、三國たちの話とジュさんのこのコメントで少し安心しました。
京都を知らんのですから、しょうがないのかな。
東京は部落問題は比較的少ない、と神戸でさんざんやられた橋川文三の親友だった伯父が言ってましたが。
多くの人が自らの出自を隠すなかで三國はあえてそれをアイデンティティにして役作りや自学したのかと思います。
それほど追いかけもしなかった人ですが、興味を持ちました(沖浦も)。