心を描いた画家 奥村土牛―画業ひとすじ100年のあゆみー
2016年 05月 18日
恵比寿駅から直ぐ、昨夏息子の入院していた赤十字病院の近く、初めて入る。
小雨けぶるなかを歩いてきた爺さんを優しく迎える趣。
「甲州街道」、古い民家を慈しむ絵。
すべての絵が慈しみに満たされている。
色は本当の色の気持ちを知り、精神を意味しなければならない。作品に添えられた画家の言葉が心を打つ。
花や鳥を生きているように描くことを考えるのではなく、描く前によく見て、花や鳥にしみじみとした愛と絵心を覚えて、その気持ちを大切にしながら描いていけば、たとえ技巧的には上手くなくてもいい絵になる。
じっとみていると、宇宙の神秘が渦を巻いているような気がしてくる。
遠くの山の裾がかすかに橙色なのが、その赤みが水面ぜんたいに映り込んでくるようでもある。
「聖牛」、なんという気品、圧倒的な存在感、人間であることが恥ずかしくなり、やがて慰められるような絵。
「浄心」、じぶんの心の中にある仏像を描いたという。
「吉野」、
初めて見たときは圧倒されて絵を描けなかったが、三度見て初めて華やかというより気高く淋しい山であることや歴史を感じた。88歳の作、ただただ美しい。
歴史画を描いているような気もし、目頭が熱くなった。
今日より日課として見る物を写生することにするもう一度行く、必ず。
「生きていれば」、毎年繰り返される言葉、26回繰り返したのだ。
戦友たちと飲み交わしているときに、ふと、こんなことを口走っていた。
年を重ねるにつれ、嫌な人のことを忘れて好い人ばかり思い出す。そんなことを言って、みんなにそれとなく謝る気分もあったのか。
それはありがたいことのようで、実は辛くもある。
そういう好い人たちに俺がした悪いことに気づくことが多いからだ。
嫌な奴に対する仕業なら、そんなに悔やむこともないのだが、あんな好い人にたいして、なんというひどいことをしたのだと自責の念が沸くととてもつらいのだ。
むかしあった支店がどんどん消えている。
今開催中のアートハウス展覧会でも奥村さんの4作品を展示しています。
機会がありましたら、遊びにいらして下さいませ。