権利と義務は表裏一体なんてセリフに騙されるな 樋口陽一・小林節「『憲法改正』の真実」その4
2016年 05月 16日
こういうのってどういう心理なんだろう、自己顕示欲がその最たる原因かと思うが、それだけでもないようだ。
焦り?何に対する?おせっかい?
いちど読んだ本をもう一度記事にするためにおさらいすると、初めて読んだような箇所が出てきて、俺の読書ってしょせんこんなものだったか、と思う。
その自虐めいた反省の快感も動機になっているようだ。
というわけで、今日は「『憲法改正』の真実」から、その4回目、題して「権利と義務は表裏一体と言うセリフにだまされるな」。
国民は自分の権利ばかりを主張して、公(国)に対する義務を果たそうとしない。そもそも今の憲法には『権利』という言葉が20数回出てくるのに国民に課せられる『義務』は三つだけ、不公平じゃないかそんなことをいう改憲マニア、それでできたのが自民党の憲法改正草案、
草案第12条(国民の義務)小林節は「権利と義務が表裏一体だ」というまやかしについて、金の貸し借りを例に挙げる。
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。
金を貸した側には返してもらう権利が生ずるが、返す義務は借りた人に生ずる。
すなわち権利を持つ人と義務を負う人は別人なのだ。
憲法の話でいえば、国民はもともと人権をもっていて、それを尊重、擁護する義務は国側にあるということ、改憲マニアがいうように「国民は権利を持つ代償として義務を負え」ということではない。
それで改憲マニアは天賦人権説の否定にまで踏み込むのだ。
改憲マニアが憧れる(?)明治憲法を作った伊藤博文は、
ソモソモ憲法ヲ創設スルノ精神ハ、第一君権ヲ制限シ、第二臣民ノ権利ヲ保護スルニアリと断言し、それに対して文部大臣の森有礼が反対した、その反対の理由は、臣民の権利は天然所持するものだから、憲法において始めて生じたように唱えるのはダメだ、というものだった。
樋口陽一が、自民党の憲法改正草案は明治憲法以前の「いにしえ」に戻ろうとしているという所以だ。
安倍も伊藤博文も長州人、ずいぶん長州人もシンポしたもんだ。
それで小林が現憲法第12条で
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。と、ちゃんと好き勝手にするなと書いてあることを指摘すると「桜井さん、顔面蒼白で言葉がなくなっちゃった」そうだ。
「俺は権力にともなう仕事を懸命に果たしている。それに引き換え、一般国民は協力が足りない。お前、非国民だな」
そりゃあ、総理大臣と一般ピープルを比べたら総理の方が大きな辛い仕事をするのは当たり前、「それに引き換え」なんていわれたらどうにもならない。
自民党の憲法改正草案の第9条の三(領土等の保全)一読、問題ないように見えるが、こういう条文をわざわざ新設し、「協力して」といれたところが曲者。
国は、主権と独立を守るため、国民と協力して、領土、領海及び領空を保全し、その資源を確保しなければならない。
協力は簡単に義務に置き換えられる。
ご都合主義で発言内容がころころ変わり、状況に合わせた二枚舌や嘘を平気でいう政権が声高に言う「協力」だから、なおさら信用できないのだ。
だから時間をかけてほしいのです
何故今急いで変えなくちゃならないのか
どこをどのように何のためにそうするのか
私のような者にも納得できるように時間をかけて教えてほしい
原発も何故急いで再稼働しなくちゃならないのか
納得させてほしいです
『常に公益及び公の秩序に反しては~』の下りは、常に公益(これが何を指すのか具体的にわからないのです)に反してはならない。というのは国民は国のために何かをしなければいけないということなのでしょうか?
公=国ならば、お国のために…という、戦時中の日本の教育を思わせる文になってしまうのでしょうか。
あやふやすぎる解釈なので、勘違いしていたらすみません(汗ご指摘頂けるとさいわいです。
全部読めるかわかりませんが、紹介してくださった本は借りてきたいと思います。
ただ、現憲法の「公共の福祉」をわざわざ直し公益とし、公の秩序を持ち出すところに自由や権利の享受に対する監視の目が強まることが感じられますね。
東京新聞にも憲法関係の記事はけっこう載っていますよ。