俳句とは即ち芭蕉の文学だ 高浜虚子「俳句はかく解しかく味う」
2016年 05月 11日
寝ころがって眼圧検査をしたことがあるというと女医さんが「いったいいつの話ですか」とあきれる。
いちども横たわることもなく、各種検査を済ませて、要するに「すぐに脳外科とかにいかなくてもいい」らしい。
瞳孔を開く薬でやたらにまぶしい道を歩いて帰る。
「早いですねえ」「はあ、毎年ねえ」
しばらくはこの道が散歩道になりそうだ。
このとき虚子45歳、大岡信の解説によれば、
子規亡き後、俳句よりは写生文、小説作者として活動していた虚子が「俳句のために旧を守らんとする『守旧派』」を名乗り、ふたたび『ホトトギス』雑詠欄の充実を通じて伝統俳句の大道に復帰し、たちまちにして俊秀を集め、ライヴァル碧梧桐の新傾向俳句を蹴散らした頃、だ。
本書の冒頭に
要するに俳句は即ち芭蕉の文学であるといって差支えない事と考える。即ち松尾芭蕉なる者が出て、従来の俳句に一革命を企てた以来二百余年に渉る今日まで、数限りなく輩出するところの多くの俳人は、大概芭蕉のやった仕事を祖述しているに過ぎん。とあり、芭蕉はもとより太祇、蕪村、子規、凡兆、水巴、几董、一茶、召波、、多くの俳人の句を明快に丁寧に読み解き断じ、「写生」「閑寂趣味」「趣向」などのなんたるやを諭したうえで、さいごにも、「芭蕉の文学」である俳句の解釈はこれを以って終わりとする、で結んでいる。
大岡は、
これを、① 歴史的観点からする「新傾向」俳句の否定、であり、② 芭蕉より蕪村を明治の新しい俳句のためのよき模範としてたたえた子規に対する異議申し立て・明らかな修正、だったとする。とする。
昭和時代における新興俳句運動、1950年代から60年代の前衛俳句運動のいずれにあっても、「反花鳥諷詠」「反虚子」がその中心的動機だった。
しかし大揺れしたかに見えた俳句界もおさまってみると、大揺れの震源地であった俳人たちさえ包みこむ形で、虚子の指し示した方向に向けて再編成されてゆくのが常だった。
「古池に蛙が飛び込む水の音がした」と、読んではいけない、「蛙の水に飛び込む音を聞いたら古池の茫漠とした姿が心に浮かんだ」と読むべきだ。
と書いている「芭蕉の風雅 あるいは虚と実について」 について前に紹介した。
ところが本書で虚子は、
実際この句の如きはそうたいしたいい句とも考えられないのである。古池が庭に在ってそれに蛙の飛び込む音が淋しく聞こえるというだけの句である。牽強付会の説を加えてこの句を神聖不可侵のものとするのは論外として、これ以上に複雑な解釈のしようはないのである。と言うから、ありゃまあ、長谷川さん、論外だってよ、と思うと、続けて、
唯この句は芭蕉が、いわゆる芭蕉の俳句を創めるようになった一紀元を画するものとして有名だという説は受取り得べき説である。それまでの滑稽洒落の談林調から脱して、
実情実景そのままを朴直に叙するところに俳句の新生命はあるのであると大悟して、それ以来、今日に至るまでいわゆる芭蕉文学たる俳句が展開されて来た、、としてこの句の歴史的価値を認めている。
長谷川櫂の本は手元にないからうろ覚えであるけれど、芭蕉が「蛙とび込む水の音」を得たときは池に面してはいなかったのではないか。
すると虚子の言う「実情実景そのままに叙」したことにはならないように思えるのだが、さて。
俳句を作れない俺だけど面白く読んだ。
岩波文庫
というのも、芭蕉は天の川を見ていないらしいですね。
天気が悪かったとか、この季節の天の川は違う方向に見えるとか…
それでイイのだ!
芭蕉にと言われているようで、嬉しくなります。
だから古池の句も含めて、私は長谷川櫂説を支持したいです。
幻視、幻覚、幻聴の俳人としての芭蕉に魅かれるのです。
こりゃあ、秋の細道をやらなきゃなるめえ。
虚子や子規の句は何も浮かんできません。芭蕉の句はいくつか出てきます。あとは加賀千代女の一句のみ。何とも恥ずかしいです。
虚子の闘争宣言。
蕪村は「菜の花や月は東に日は西に」が教科書に載っていたような気がします。
本書にはこれは載っていませんが、「五月雨や仏の花を捨てに出る」「春の水山無き国を流れけり」などいくつか載っています。
目はまだ違和感がありますが、まあ大丈夫でしょう、ありがとう。
虚子の句は印象鮮明で、すぐに頭に入ってきます。
遠山に日の当たりたる枯野かな
桐一葉日当たりながら落ちにけり
流れゆく大根の葉の早さかな
去年今年貫く棒のごときもの
手毬唄かなしきことをうつくしく
などは有名です。
岩波文庫の顔写真は立派でいかにも大人物ですね。