安倍はビリケン首相戦後版だ 「憲法改正」の真実(立憲主義と民主主義)
2016年 05月 09日
サンチの奴、俺だけと行く時よりもはしゃいでやがる。
いっちょまえに仲間入りしたがり首を突っ込んでくるサンチには飯粒100粒くらいを、10粒くらいにわけてやる。
みんなそれぞれのポーズが面白いね。
いっぱいやったら、とカミさんに勧められたがお握り食っちゃったし、飲んだらしんどくなりそうだし、ちょっと高いし、、要するにいまいち気が進まなかった。
連休明けには、といっていた「はじめ」を見にいくと、
喜んでいたら、戸が開いて、親方とママと姉さんの笑い顔、「ご迷惑かけました、もう大丈夫です!」、はじめ難民が押し寄せそうだ。
天皇主権の明治憲法の時代には、天皇あるいは藩閥政府(のちには軍部)が権力を握っていることが明らかだったから、憲法によって縛られるべき権力も明確だった。
帝国議会を無視した超然内閣の寺内正毅首相のあだ名はビリケン首相だった。
それは大阪通天閣のビリケンに似ているということもあったが、彼が「非立憲」(≒ビリケン)だということ、当時は一般民にも立憲・非立憲という言葉が定着していた。
戦後、国民主権になると、主権者たる国民の代表が決めたものをなぜ憲法で制限する必要があるのか、という疑問がでてくる。
現に安倍は立憲主義とは絶対王政の時の考え方で、今の時代には絶対的なものではない、と国会でも主張している。
そのもっとも有名で重要な事例はナチスドイツの登場の仕方だ。
いみじくも2013年に麻生財務相が言ったように、
(ドイツの)憲法はある日、気づいたらワイマール憲法が変わってナチス憲法に変わっていたんですよ。誰も気づかないで変わった。あの手口に学んだらどうかね。ワイマール憲法は国民主権に基づく民主主義だった。
人民の名において非人道的な支配をしていた旧ソ連・東欧圏、国民投票をすると100%近い支持を得ていたイラクのサダム・フセイン。
世界的な流れで見ていいうと、≪民主≫だけで進んでいっても、全体主義に転化したり、独裁を招いてしまう。過去30年ほどのあいだに立憲主義は急速に見直されてきている(樋口)
安倍が「たった三分の一ちょっとの国会議員が反対すれば(憲法改正が)できないのはおかしい。そういう横柄な議員には退場してもらう選挙を行うべきだ」(2012年9月)(引用しているとトランプの顔が浮かんでくる)と言ったのは、絶対民主主義の考え方、すなわち多数派は支配的にふるまってよいとする民主主義の考え方だ。
まして民主主義を表に振りかざしながら国会を軽視するような安倍はその民主主義すら破壊しようとしている。
立憲主義と民主主義、そのどちらもが存在せず、そのような権力が恣意的にその力をふるうことができる政体をなんと呼ぶのか。独裁政治、小林は金ファミリーが支配する北朝鮮と、日本は変わらない状態に近づいている、とまで言う。
今でも国民の主権を無視している安倍たちが考えているような憲法を作ったらますますアメリカのポチになるのではないですか。
国民が主権を発揮できないように民主主義を破壊し、立憲主義をないがしろにしている安倍=日本会議は憲法を変えて日本が晴れて軍隊が持てたら日本がちゃんとするなどとあり得ないことを考える妄想集団だと思います。
あれだけの軍備を備え、めちゃくちゃな金を使っているアメリカの実態をみたらすぐにわかることではないですか。
この手のイベント、
東京では多いですね。
GWに東京の娘のところにいったとき、
スカイツリーの足元の広場でも、
世界のビールのイベントをやっていました。
一杯1000円、
やはり、高いですよね。
二杯目にはいけませんでした。
法律が国家の意思として国民の活動を制約するのに対し、憲法は、国民が権力に対して、その力を縛るもの。憲法を守る義務は権力に課され、国民は権力者に憲法を守らせる側に立つ。
② 近代立憲主義の実質的内容は「人権」であり、さかのぼって「個人」を社会の価値の源泉とする考え方である。天賦人権説が根っこにある。
これだけは堅持していかねばなりません。