オオアマノオウジ、とは何者だったか 遠山美都男「壬申の乱 天皇誕生の神話と史実」
2016年 05月 06日
今、振り返ると、こういう言葉を使っていた先輩、そのまねをした俺、ともども前者、たんなる語呂合わせだったような気がする。
天智天皇が、大海人皇子とのかねてからの約束に反して、わが子大友皇子を継承者にしようとしたから起きたのが壬申の乱である、という通説は天武天皇(大海人皇子)が作らせた「日本書紀」の記述であって、真実は異なる、という著者。
天智亡きあとの「女帝」(後継が決まるまでの中継ぎ)・倭姫王に譲位を促して即位するために、天武・大友の双方が対等の立場で戦った戦争だと。
そのために複数の後継者による争いが多かった。
律令国家体制が整うにつれ、そういう不安定要素をなくし、血統による王位継承への転換を構想したのが天智であり、それをよしとする豪族などの支配層も多かった。
天智は大津宮で即位した686年当時から大友皇子を後継者にしようと考え、大海人皇子も当初は協力を約していた。
しかし天智が病に倒れたころから大海人皇子の気持ちが変わる、自ら王位につきたいと、少なくとも天智はそのように判断した。
大海人皇子を病床に呼んで大友皇子構想への協力を再確認する、否といわばその場で殺す決意を大海人皇子も読み、その場で出家することを言い、死地を脱する。
このあたりの天智紀や天武紀などの記録の読み方がミステリのようで面白い。
裏切り者は大海人皇子だった!
付き従う者たちの出自、思惑、軍備の実態、戦いの実相、講談を読むようだ。
大海人皇子が漢の劉邦を自らに重ねて赤のドレスコードに赤色の旗、映画を見るようだ。
その外交上の理由、
それまで中国に従属しながらも、中国と同じように朝鮮三国をしたがえた、中国の「天下」とは別個に存在する倭国中心の「天下」の統治者という意味が新羅の朝鮮統一により、唐・新羅戦争が始まると成り立たなくなったこと、
国内の統治上の理由、
伴造・部民制の解体・再編成によって、大王への貢納・奉仕による支配から、豪族・民衆の居住地による編成・把握へと支配システムが変質したこと。
天智時代に作られた戸籍制度=庚午年籍がこのシステムを支えるものであり、壬申の乱における徴兵は庚午年籍にもとづく割り当てがなされたという意味で社会実験でもあった。
新しい支配システムの上に超越的に存在する者は、もはや大王ではなく、別の呼称を必要とした。
法体のまま、戦争を統括しながら、自らは戦線を退き、戦闘指揮を高市皇子に任せてしまった大海人皇子は、戦の間も大王に代わる呼称を考えていたのかもしれない。
秋風や藪も畑も不破の関 芭蕉
乃楽(なら)、吉野、当麻、名張、朝明、桑名、安八、瀬田、、名古屋に4年ほど仕事をしていたころに近くに感じた地名、古代の武者たちと結びつけて考えることはほとんどなかったな。
中公新書
兄弟姉妹で骨肉の争いを繰り広げられるのも、
わかるような気がしますね。
そしていくら諮っても思うようにいかない、そこに歴史のドラマが誕生します。
この時代のいろいろな人物、近親結婚やいろいろな氏の興亡、飛鳥を歩いていて思いを馳せると楽しくなります(2回ほど歩きました)。とても好きな時代の一つです。