現世享楽主義宣言 長谷川宏「日本精神史」その13「伊勢物語」&加藤周一「日本文学史序説」
2016年 05月 02日
やっと日当たりのいい芝生で遊べると思ったら、日差しが強すぎるので玄関前に退避。
「サンチ、サンチ」とサンチよりはしゃいで喜んでくれた。
「古今和歌集」に見てとれる、貴族社会の集団的な遊興や社交の雰囲気、さらには、もの憂さの気分やはかなさの情調、それらを引き継ぐようにして作られた歌物語が「伊勢物語」。
十代前半であろうとも元服した貴族ならば、異性を美しいと認めたら、ただちにその思いを歌に詠んで相手に伝えなければならない。
しかも、その歌は「古今和歌集」に示されたようなすぐれたものであり、状況をふまえた機転の利いた都会的で洗練された趣向が添えられなければならない。
もっとも尊ばれた「雅び」の要件は色好みと歌心だ。
長野の山猿・俺は野暮、女と口をきくだけでも上がってしまい、手なんか握りでもしようものなら結婚しなければならない、と、いや、この俺と結婚してくれる女なんているはずがない、と思い込んでいたのとは大違いだ。
主人公は、皇后と姦通し、伊勢の斎宮(内親王であり処女であるべき)と関係しても、罪の意識をもたない。
制度や身分や職務や権力の動向に縛られて生きる貴族の間にも、政治権力や社会制度からぬけ出した一対の男女の関係が成立し、その関係のなかで生きる歓びや性の歓びが生まれる、というゆるがぬ確信が歌物語の作者にはあった。
加藤周一は、「日本文学史序説」において、
業平は、源氏・世之介・丹次郎とつづく日本のドン・ファンの系列の先祖であって、多くの女と関係するばかりでなく、世俗的な意味でも、宗教的な意味でも、女との関係に何らの禁忌を認めていないという点で、甚だ特徴的である。
とし、それは作者の理想だったのかもしれない、その理想は「古代歌謡」以来の土着世界観の枠組みのなかでのみ可能であったはずだろうと、
おそらく「伊勢物語」の歴史的な意味は、男女関係を中心とする伝統的な現世享楽主義の意識化ということであり、一箇の理想としてのその最初の表現だということに他ならなかった。
といっている。
そして業平は、色好みの世界から一歩踏み出し、男性との友情のうちにも、生きる歓びと美しい情感を味わう人物として描かれる。
業平の死。
つひにゆく道とはかねて聞きしかど
きのふけふとは思はざりしを
お義母さんのうれしそうな笑顔、私までうれしくなりました。
綺麗な方ですね、きっと奥様も!
>もっとも尊ばれた「雅び」の要件は色好みと歌心だ。
ごもっとも!
先日深夜便で『相聞歌』の特集を聴いていました。
古代の方たちのラブレターはすごいですね。
短歌にするとなんとなく上品になるのが不思議です。
それが嬉しいです。
そちらのように一緒に暮らせればいいのですが。
そうそう、和歌は古文だからワンクッションあるのですね。
現代語でずばずば言われたらドキッとします。
今の若い子たちはあんなズバリ発言をしているのかも。