喜多八「居残り佐平次」「愛宕山」&権太楼「笠碁」「死神」 @三田落語会

いちばん安い方法で落語会に行こうと、目黒までバスに乗って都営地下鉄に乗り換えて三田までいく。
地下鉄の表示が毎度のことながら、どれに乗ればいいのかわからない。
いろんな会社が相互乗り入れしているのは便利だけれど、地下鉄といえば銀座線と丸の内線しかなかった時代に東京原体験をした者にとってはとんでもない方向に想定外の駅があるからまごつくのだ。

10分ほど遅れて席に案内されると、一花が「金明竹」のお終い部分。
いい声でゆったりと聴かせていて、すでに会場が盛り上がっている。
ほめ・くさんは女流落語家を認めないけれど、俺は認める、認めるとも!
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(「しらいし」。ワカサギに似ているけれど「ちか」、海水に棲む)

権太楼「笠碁」

この近くにある「明治学院という慶応には入れないレベルで金持ちの子弟が通う学校」にいる頃からアルバイトをして買った車遊び、何台も買い替えて最後はフエアレデイZのコンバーチブルまで手に入れたほどだったのに、今のホンダは自分では運転しなくなった。
ゴルフも、せんじつ、プレイ中にふと「自分が思っているほど好きじゃない」ってことに気がついて、バッグをほたる(弟子)のところに送ったきり。
年をとるということはそういうこと、トウカエデの盆栽と語り合う日々だ。
笑わせながらも実感のこもったマクラ、葬式の出棺のときに流れるだろう出囃子のこととか、さいきんは年をとったことにともなうくさぐさについての噺がもっぱら、共感もするけれど少し寂しい気もする。

「笠碁」の演じ方もひところのような爆笑連発というよりも、待った待たないで喧嘩して「あたしとおまえさんしかこの町内にいないんだから」の隠居二人の哀愁みたいなものを感じた。
雨の日、表を歩いてきた碁仲間が通り過ぎてゆくのを、じい~っと見つめ、最後は伸びあがるようにして見送る、その繰り返しが、とても感じがある。
「気がついているよ、二人でず~っと目が合ってる」、哀愁でもあり友をもつ喜びでもある。
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喜多八「居残り佐平次」

この会場(仏教伝道センター)は幕が下りないから板付きというわけにはいかない、さて喜多八はどう上がるのだろう。
固唾をのんで見守る中を前座の肩につかまりながら、さいごは一人で立って座る。
満場の拍手。
12日に牛込で見た時より痩せたことがわかる。

「ちょっと参ってます、食欲がなくて、、原因はわかっているんですが、、薬、、なるようにしかならない」
トイレットペーパーを椅子の代用にする説明と実演を今日もやる。

脱力の喜多八がいっそう脱力して演じた佐平次。
若い衆が勘定を請求すると、「肚あ割って話をするが、まあ、ナンだな、世の中にひどいやつがいるのだ、聴いておどろくなよ」と声をひそめ、興味津々近寄る若い衆に、にやっと笑って「カネはない」。
こういうところの間の良さは天下一品、声を出して笑った。
昨日のお仲間は?
「あれは、新しい友達とでもいうか、一昨日あったばかり」、つい居残り会を思い出した。
2011年5月に三人の「新しい友達」で結成、今じゃ「古い友達」になりかかっている。

後半、かっつあんに花魁の様子を語ってみせて、焦れた花魁が「黒文字を奥歯でパッキ―ンと折る」なんてのも良かった。
喜多八「居残り佐平次」「愛宕山」&権太楼「笠碁」「死神」 @三田落語会_e0016828_10174228.jpg
喜多八「愛宕山」

何をやろうか、軽いネタそれとも会の方から注文された噺、迷ったけれど覚悟を決めました。
といって、再びものを食えないことをいい、テレビで「無駄に良く食う」、「はもたけ鍋」ってなんだありゃ、秋のマツタケと春の鱧が出会うその時だけ食えるって、てっ!きざな。

山登りの部分をカットしてカワラケ投げから。
一八が、朝飯前だとマネをするが、「わっつ!茶店!」、あぶねえなあ。
旦那が投げても投げてもうまくいかない小判投げ、「私が的になる」、わかるなあ。

飛び降りるのが怖くて、目隠しをしてもらうが、それも怖い、「片っぽ穴あけてくれ」。
「豚もおだてりゃ木にのぼる、飛べない豚はただの豚」、ワケワカなことを言う。
無事に落ちて、傘を握りしめた右手を左手ではがさないととれない。

さすがに曲芸的に生還するところはあっさり。
それでいいのだ、無理するな。
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権太楼「死神」

「長生きするのも芸の内」という万太郎(吉井勇の間違い?)の言葉の意味がようやく分かるようになって、若いときは談志、志ん朝、小三治などに憧れていたけれど、今は圓歌、金馬の「死ぬのも忘れた現役」がえらいと思う。
小三治が「扇橋のように生きたい」とよく言うが、自分も自然に生きたい、邪念のない生き方、どうでもいいというんじゃなくて、なすがままという感じで生きたい。
でも私は「受けたい」というような邪念がなくならないのですね。

そこから「できたのかい?!おあしは?」とオカミサンの恐ろしい一喝。
死んじゃおうと、どうやったら木にぶら下がれるかととつおいつしていると、「教えてやろうか」現れる死神。

その描写が、さっきひっこんだばかりの喜多八を、どうしても、思わせる。
困ったなあ、と思っていると、「芸協の歌丸さんみたい」とフォロー(?)。
呪文は「あちゃらかもくれんきゅうらいそ、円歌と金馬は長生きだ、てけれっつのぱー」。
死神が「(お前が布団を動かすような、悪さをするから、死ぬはずの患者が生き返って)、おかげで俺は理事を辞めさせられた」というギャグ、権太楼が落語協会の理事を辞任した(2010年)ことを知っている、ご通家の多い三田落語会だ。

さいごは死神が「消えるぞ消えるぞ、、消えたか」、蝋燭の灯が消えて、それに気がついた男ががくんと崩れ落ちる。

これもぜんたいに抑えた演じ方。
死すべきものは死すべき、あるがままってことか。

終わって外に出たら、前を権太楼がひとりでガラガラを引っ張って歩いている。
追いついて「お疲れさまでした」と声をかけると「おつかれさまでしたあ、、ありがとございます」。
ちょっと力のない声、ほんとにお疲れさま、身体に気をつけてくださいね。
Commented by kogotokoubei at 2016-04-24 13:58
喜多八の高座が目に浮かぶだけに、ちょっと・・・・・・。

権ちゃんの「笠碁」、私は好きです。
しかし、昨日神保町で入手した本「落語聴上手」(飯島友治著、筑摩書房)に、三代目三遊亭小円朝のこの噺が絶品、と評して、次のような記述がありましたので、ご紹介します。少し長くなりますが、ご容赦のほどを。
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小円朝ですごいなと思ったのは・・・・・・碁をさしに来た男が新しい盤を見て、「やあ、かやの八寸盤ですね」と言う。そして碁が始まると、石を置く手の高さがちゃんと碁盤の高さのところに置かれる。
(中略)
 石を置いて相手を見る。「どんなもんだい」と、ほんのわずかな視線で自慢の気持ちを表わす。その顔の表情が上手でしたね。目だけで気持ちを表現する、ここいらが「芸」なんだなと感じ入りました。
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 きっと権ちゃんも、こういった芸風への憧れはあるのでしょうが、つい、「受けたい」という邪念が・・・ということなのでしょう。
 飯島さんが愛してやまなかった三代目小円朝、今なら、小満んかなぁ、と思っています。
Commented by ほめ・く at 2016-04-24 16:46 x
吉井勇の短歌に「長生きも藝のうちぞと落語家の文樂に言ひしはいつの春にや」というのがあるそうですから、吉井勇に間違いないと思います。
権太楼の『笠碁』で、「気がついているよ、二人でず~っと目が合ってる」というセリフは確か初めて聴きました。芸の年輪なのか、それとも喜多八への思いやりなのか。
Commented by saheizi-inokori at 2016-04-24 20:52
> kogotokoubeiさん、春団治の「代書や」で墨をするのがあたかも硯があるかのようなのと同じですかな。
昨日の権太楼の目の演技は良かったですよ。
Commented by saheizi-inokori at 2016-04-24 20:54
> ほめ・くさん、あの目の動きは生きていたと思います。
こんごも喜多八を追いかけて行こうか、迷っています。
行くだろうなあ。
Commented by unburro at 2016-04-24 22:25
蛇足を承知で申し上げると、
「飛べない豚はただの豚」っていうのは、
宮崎駿の「紅の豚」の中の、セリフです。
saheiziさんは、アニメをご覧にならない、と
いつか読んだ気がしますが、
これは、騙されたと思って、ご覧になってみて下さい。
是非!
Commented by saheizi-inokori at 2016-04-24 23:38
> unburroさん、その映画は見たのですよ。
しかも面白がって。
それなのにそのセリフを忘れてしまってた!
Commented by ikuohasegawa at 2016-04-25 04:59
笠碁はカミサンが大好きです。
昨日も「笠小碁は人生がわかる」と申しておりました。

権太楼のところには前座の弟子がいなくなったから、一人で帰るのでしょうが、喜多八はどうやって・・・誰かいるのかなあ。
Commented by j-garden-hirasato at 2016-04-25 06:58
「地下鉄の表示が毎度のことながら…」
田舎者だけでなく、
東京にお住いの方もそうなのだ、
と、少しホッといたしました。
「ちか」
初めて聞きました。
どう見ても、わかさぎですけどね。
Commented by saheizi-inokori at 2016-04-25 09:36
> ikuohasegawaさん、そうえいばこの間牛込の時は喜多八が一人で杖を突いて歩いてきたと、友人が目撃談を語っていました。
事故がなければいいのですが。
Commented by saheizi-inokori at 2016-04-25 09:38
> j-garden-hirasatoさん、しかもこの乗り換えはなんどもやっているのですよ。
便利になりすぎたから一つの目的地に複数の行き方がある、それがかえって爺さんには混乱の元なのです。贅沢な悩みかもしれないですね。
Commented by at 2016-04-26 06:41 x
>共感もするけれど少し寂しい気もする。
本当ですね。明るいキャラの権さまがいいなァ。
『代書屋』の激しいナンセンスぶりとか、
次のような居酒屋風景の小噺にあけっぴろげな可笑しさがあって好きです。

客A「お近くですか?」
客B「そこの角を曲がって、左側の三軒目(大まかに答える)」
客A「うそでしょう、そこはあたしんちです」
客B「そんなバカなことはない、ウチですよ」
果ては口論に・・・
客C「大将、ほっとくの?」
店主「いいんだよ、あの二人親子なんだから」
Commented by saheizi-inokori at 2016-04-26 10:35
> 福さん、落語のシュールな笑いがリアルの辛さを吹き飛ばしてくれますね。
しみじみとした人情噺も悪くないけれどやはり滑稽噺がなくちゃあ。
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by saheizi-inokori | 2016-04-24 13:03 | 落語・寄席 | Trackback | Comments(12)

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