幽霊になって行ってみたい街 佐々木譲「砂の街路図」

昨夜は志ん生の「饅頭怖い」をテープで聴きながら寝た。
俺が初めて落語の噺を知ったのはこれだ。
たぶん祖母か母が話してくれたんだと思う。

寄席で聴いたのは何年前だろう。
前段の「怖いもの比べ」で、怖がらない男が「蛇なんか頭に巻いて熱ざまし」とか「ミミズは三杯酢にして食っちまう」「蟻なんぞゴマの代わりに飯にかけて食う」「蜘蛛はかき混ぜて納豆の代わりに食う」などと(噺家によって違うのだが)いうのがちょっと気味が悪かった。

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饅頭に、温泉饅頭、蕎麦饅頭、栗饅頭、酒饅頭、葬式饅頭、腰高饅頭、、ずいぶんいろいろあるんだと驚いたこともあるが、今はたいていの饅頭は食った。

いい若いもんが、あれが怖いこれが我慢できないというところ(オケラがこわい、なんて傑作)、怖がらない男の虚勢をはるところ、そんな豪傑が甘党で饅頭をうまそうに食うところ、、
なかなか面白い噺なのだが、どういうわけかさいきんホールでも寄席でも聴かない。
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佐々木譲の作品はいくつか読んだはずだが書名も内容も思い出せない。
嫌いな作風ではなかった、だからどこかの書評で知って本書を借りて来たのだ。

主人公が、20年前に友人の葬儀に出席するために来て、河に落ちて死んだ父の謎を知りたくなってやってきた北海道の運河に囲まれた小さな街・郡府(ぐんぷ)、それは、

 九月の青空のもとでも、その街の印象は暗い灰色であり、ひっそりと落ち着いていて、どこか哀しげにも見えた。石造りの西洋建築が多く、なるほど話に聞く明治期の港町を想起させる。少し異国的だ。大正時代、亡命ロシア人たちが多く移り住んだ、という歴史のせいもあるのかもしれない。しかもそのころのまま、時間が凍結したかにも見えるのだ。戦後の高度成長も、ましてやバブルの時代もこの街をよけて通ったかのようだ。広告看板やミラーガラスの建物のない町並みは、品のいい老嬢という雰囲気もあった。

故郷を離れて長くなると、ひとは心のなかに故郷の幻想をつくりあげるってことはないだろうか。
育ったころのいろいろな思い出が風化し、多くが忘れ去られていくうちに、わずかに残った思い出は、あるいは美化されあるいは歪曲されて、記憶の海底に沈む。
それが、なにかのはずみで浮かび上がってくる、ときには自ら喚起して感傷に浸りたくもなる。

さらに、そうして浮上した記憶のかけらに意識的に手を加えて、現実には存在したこともないが、過去を経て現在に到った自身の分身がもういちど過去に戻って動き回るための「わが故郷像」とでもいうべき街を作り出すのだ。
もしかすると北海道生まれの作者は、そういう故郷像として郡府を作り上げ、その街を分身としての主人公を歩きまわらせて、そこに自在に物語を立ち上げたのではないか。
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そういう意味では本書の主人公は、郡府のなかの運河町だ。
始めの内は街の地形・街路・運河などの説明が続く。
裏表紙に描かれた地図をその都度参照しないと訳が分からず、それは退屈だった。

だが、しばし我慢をすると俺も運河町を歩いているのだ。
もう地図は欠かせない。
すると、現れるのは、

ヨーロッパの田舎の小ホテルのような趣のあるホテル、隣室にいるらしいシャイな客、首都圏の格式のあるホテルのコンシェルジュも務まりそうなホテルマン、父の遺したマッチブックの店・硝子町酒房、そこの変人マスター、親切な市立図書館の女司書、郷土史に詳しい老人、かつては弦楽四重奏団にいたという流しのバイオリン弾き、斜陽の地元紙の社長兼編集長、ロシアレストランを経営する亡命ロシア人の子孫、ミラノで修行してきて古い倉庫を使って「運河町家具工房」を設立して高級家具を売る男、、。

遂には幽霊までが歓迎してくれる。
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この街、俺も行きたくなった。
行って残された人生を過ごすのだ。
でも行こうと思えば砂に描いた地図は消えてしまう。


Commented by unburro at 2016-04-19 15:38
人は皆、こころの中にそんな自分だけの町をもっているのかもしれませんね。乙川優三郎にとっての、御宿もそうなのでしょう。
「トワイライト・シャッフル」読了しました。
千葉の海を見たことのない私にとって、小説の中のあの町は、
外国のように感じられました。
あの短編集にも、それぞれの登場人物の家が記されている地図が付いていたら、面白かったでしょうね。
作者の頭の中には、きっとそんな地図があったはずです。

地図付きの、分厚い海外ミステリーをのんびり読みたい気分です。
しかし、それは長期入院でもしないと無理かな…
でも、そうすると、ウィスキー片手に、というわけにはいかないので、やっぱり、入院はやめましょう(笑)
Commented by saheizi-inokori at 2016-04-19 21:23
> unburroさん、御宿は子どもたちが小さい頃に海水浴に連れて行ったりなんどか行きました。
乙川が書いているほど素敵なところとも思えない、どっちかというと勝浦とか大原の方が好きですが、乙川は自分のイメージで”御宿”をつくっているのですね。

郡府の運河町、それは記事に書かなかったけれど青春=人生の過ちも立ち上がってくる街なのです。
その苦みがまたいいのです。
ウイスキーの苦みですね。
Commented by j-garden-hirasato at 2016-04-20 06:29
落語を聞きながらご就寝とは、
これまた粋ですねえ。
好きなものに包まれながら、
いい夢を見れたでしょうか。
Commented by at 2016-04-20 06:56 x
何を隠そう(隠してもないですが)、『饅頭怖い』は志ん生が大好きです。昨日の飯がこわいから云々という、他の噺家が言うとシラけるくすぐりが、志ん生ゆえに可笑しく聞こえるところ。
「ひいっ!ひでぇことしゃがる」なんていうストレートな怯え方。
志ん生の話にあったかどうかは不明ですが、
蟻が怖いのは、集まってオレの悪口を言っているんじゃないかと思われてならないというのもありましたね。
Commented by saheizi-inokori at 2016-04-20 09:40
> j-garden-hirasatoさん、たいていはマクラの終わらないうちに寝てしまう。
夜中に目が覚めるとまた同じマクラで寝てしまう。
昨夜はちゃんと終わりまで聴きましたが。
Commented by saheizi-inokori at 2016-04-20 09:42
> 福さん、ムカデにどんな股引を買うのか、なんていうのもおかしくて堪らなくなります。
蟻の噺もそうですが、ルナールの向こうを張った志ん生流の「動物誌」の趣もあります。
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by saheizi-inokori | 2016-04-19 12:14 | 今週の1冊、又は2・3冊 | Trackback | Comments(6)

ホン、よしなしごと、食べ物、散歩・・


by saheizi-inokori