「日本的自然愛」の誕生 長谷川宏「日本精神史」その12「『古今和歌集』と『伊勢物語』」の1&加藤周一「日本文学史序説」
2016年 04月 14日
ロシア機が米軍艦をめがけて9メートルの近さまで急降下する、なんども。
映画の一シーンではない、13日バルト海・公海での出来事の映像だ。
ロシア機の似たような行動が頻発しているという。
スターリン復活が取り沙汰されるプーチン政権が正気を保っていることを祈る。

怖い映像の残像を追い払うために「古今和歌集」のことを学ぶ。
長谷川宏「日本精神史」だ。
「寛平御時きさいの宮の歌合わによめる」と詞書のある、源むねゆきの朝臣の歌
ときはなる松のみどりも 春くれば 今ひとしほの色まさりけり
万葉集から130年後に勅撰の「古今和歌集」(905年)が出来上がった。
詞書にあるように、「古今和歌集」の優美繊細な歌風は、歌合わせの(貴族の)集団的遊宴の気分と切っても切れない関係にあった。
さまざまな身分・職業の人たちの素朴な歌がぶつかりあってあちこちで不協和音を立てる「万葉集」と違って、下級貴族・僧侶・宮廷の女性たちは自分たちの歌を個の意識の表現というより、共同の意識の表現だと考える傾きをもって「古今和歌集」に集った。

貴族社会の生活と趣味の共通性が歌に遊び心をもちこむことを可能にした。
別れの歌ですら、ユーモアを感じさせる技巧が駆使され、全体の三分の一強を占める「恋の歌」は、とくに理知的で技巧的に「恋する気持ちに疑いや不安が混じり、喜びに悲しみが混じる」のだった。
小野小町の
うたたねにこひしき人をみてしより ゆめてふ物はたのみそめてき
恋のはかなさ、危うさが多くの歌人に共有されていた。
紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠峯という選者を初めとする歌人たちは、自分たちの恋心を不安定な方向に向かって深めようとしていた如くだ、と長谷川はいう。

そういう意識の背景には、この世を生きる「もの憂さ」とでもいうべきものが漂っていて、その気分は、「古今和歌集」全体を通じて聞きとれる通奏低音だとも。
紀貫之の
吉野河岸の山吹ふく風に そこの影さへうつろひにけり
読人知らずの
世中はなにかつねなる あすかがはきのふのふちぞけふはせになる
一見死の悲しみに通じるところのありそうな、もの憂い気分やはかない情調も、人びとに共有されているかぎりでは、身近な個人の具体的な死に向かい合うという果断さとは異質なものであり、「古今和歌集」には「万葉集」の挽歌に当たる「哀傷歌」の数は少なかった。

加藤周一「日本文学史序説」は、「古今集」(と加藤は書く)の特徴として「四季」の歌が多いことを上げる。
たとえば紀貫之の
袖ひじてむすびし水のこほれるを春たつけふの風やとくらん
加藤は「古今集」の歌人の多くが多かれ少なかれ和歌を専門とした知識人・職業的歌人であったから、非日常的な恋の感情を動機にした(「万葉集」のような)歌作は成り立つはずがなかった、と同時に万葉集の歌人たちが、彼らの恋を託するために詠った花鳥風月を、恋をはなれても、それ自身のために詠うようになった。
貫之が春・秋の歌のなかでうたった花は六種類、小鳥は二種類に過ぎない。
彼は「自然」を愛したのではなく、言葉を愛した。
ほととぎすという鳥ではなく、ほととぎすという言葉。
これを、加藤は「日本的季節感」「日本的自然愛」と呼び、その典型に「歌枕」の成立をあげる。
「もの思ふ」が自動詞的に使われて、恋の対象を思うのではなく「もの思ふ」状態が意識される。

加藤が指摘する、「古今集」の「万葉集」とのもう一つの大きな違い。
「万葉集」は想出をうたわず、現在の感情をうたう。
上の貫之の歌、「春立つ今日」は、『袖ひじて」水を汲んだ昨年の春(または夏)と、その水の凍った冬と、過去の二つの時期の想出と重ねて、語られている。
時の経過そのものが主題とされた歌もある。
都の外に出ることも少なくなった閉鎖社会に住む貴族たちの感覚が時の流れに対しても敏感になり、洗練され、繊細な美学が成立した。
「古今集」の伝統が、政治権力が武士に移ったのちの貴族たちの自己同定の根拠とされた。
「古今伝授」、「古今集」の極端に瑣末な事柄が「秘事」とされて特定の弟子に伝えられる。「秘事相伝=秘伝」という日本文化に特徴的な現象も「古今集」に源を発している。
と、これも加藤。
「てにをは」の始まりもそうであるけれど、現代も日本文化は「古今和歌集」の流れのなかに漂っているのではないか。
派閥、なんてのも。
映画の一シーンではない、13日バルト海・公海での出来事の映像だ。
ロシア機の似たような行動が頻発しているという。
スターリン復活が取り沙汰されるプーチン政権が正気を保っていることを祈る。

長谷川宏「日本精神史」だ。
「寛平御時きさいの宮の歌合わによめる」と詞書のある、源むねゆきの朝臣の歌
ときはなる松のみどりも 春くれば 今ひとしほの色まさりけり
万葉集から130年後に勅撰の「古今和歌集」(905年)が出来上がった。
詞書にあるように、「古今和歌集」の優美繊細な歌風は、歌合わせの(貴族の)集団的遊宴の気分と切っても切れない関係にあった。
さまざまな身分・職業の人たちの素朴な歌がぶつかりあってあちこちで不協和音を立てる「万葉集」と違って、下級貴族・僧侶・宮廷の女性たちは自分たちの歌を個の意識の表現というより、共同の意識の表現だと考える傾きをもって「古今和歌集」に集った。

別れの歌ですら、ユーモアを感じさせる技巧が駆使され、全体の三分の一強を占める「恋の歌」は、とくに理知的で技巧的に「恋する気持ちに疑いや不安が混じり、喜びに悲しみが混じる」のだった。
小野小町の
うたたねにこひしき人をみてしより ゆめてふ物はたのみそめてき
恋のはかなさ、危うさが多くの歌人に共有されていた。
紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠峯という選者を初めとする歌人たちは、自分たちの恋心を不安定な方向に向かって深めようとしていた如くだ、と長谷川はいう。

紀貫之の
吉野河岸の山吹ふく風に そこの影さへうつろひにけり
読人知らずの
世中はなにかつねなる あすかがはきのふのふちぞけふはせになる
一見死の悲しみに通じるところのありそうな、もの憂い気分やはかない情調も、人びとに共有されているかぎりでは、身近な個人の具体的な死に向かい合うという果断さとは異質なものであり、「古今和歌集」には「万葉集」の挽歌に当たる「哀傷歌」の数は少なかった。

たとえば紀貫之の
袖ひじてむすびし水のこほれるを春たつけふの風やとくらん
加藤は「古今集」の歌人の多くが多かれ少なかれ和歌を専門とした知識人・職業的歌人であったから、非日常的な恋の感情を動機にした(「万葉集」のような)歌作は成り立つはずがなかった、と同時に万葉集の歌人たちが、彼らの恋を託するために詠った花鳥風月を、恋をはなれても、それ自身のために詠うようになった。
貫之が春・秋の歌のなかでうたった花は六種類、小鳥は二種類に過ぎない。
彼は「自然」を愛したのではなく、言葉を愛した。
ほととぎすという鳥ではなく、ほととぎすという言葉。
これを、加藤は「日本的季節感」「日本的自然愛」と呼び、その典型に「歌枕」の成立をあげる。
「もの思ふ」が自動詞的に使われて、恋の対象を思うのではなく「もの思ふ」状態が意識される。

「万葉集」は想出をうたわず、現在の感情をうたう。
上の貫之の歌、「春立つ今日」は、『袖ひじて」水を汲んだ昨年の春(または夏)と、その水の凍った冬と、過去の二つの時期の想出と重ねて、語られている。
時の経過そのものが主題とされた歌もある。
都の外に出ることも少なくなった閉鎖社会に住む貴族たちの感覚が時の流れに対しても敏感になり、洗練され、繊細な美学が成立した。
「古今集」の伝統が、政治権力が武士に移ったのちの貴族たちの自己同定の根拠とされた。
「古今伝授」、「古今集」の極端に瑣末な事柄が「秘事」とされて特定の弟子に伝えられる。「秘事相伝=秘伝」という日本文化に特徴的な現象も「古今集」に源を発している。
と、これも加藤。
「てにをは」の始まりもそうであるけれど、現代も日本文化は「古今和歌集」の流れのなかに漂っているのではないか。
派閥、なんてのも。

>ロシア機が米軍艦をめがけて9メートルの近さまで急降下する
恐ろしい話ですね。こんな国との北方領土問題解決なんてあり得ないと思ったりします。
恐ろしい話ですね。こんな国との北方領土問題解決なんてあり得ないと思ったりします。
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> tonaさん、社会正義よりも経済的利益が大事なのですから、それだけの取引材料を提供できればともかく、むずかしいですね。
日本精神史、行きつ戻りつしながら「仏教の受容」まで読み進んでおります。おもしろいです。;
加藤周一さんの『日本文学史序説』は長く愛読の書ですが、内容は読むそばから忘れてしまうので、何度も読み返すのです(^^;
また読まなくちゃ!
また読まなくちゃ!
by saheizi-inokori
| 2016-04-14 14:38
| 今週の1冊、又は2・3冊
|
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Comments(8)