「てにをは」こそ日本的抒情の秘密 大岡信「日本詩歌紀行」
2016年 04月 10日
「てにをは」みたいなことをうるさく言うな、そんなことを一度や二度は言われたことがあるでしょう。
いや、言った方かな。
ところが詩歌の世界では「てにをは」こそが生命線だと大岡信は「日本詩歌紀行」の冒頭にいう。
凩の地にもおとさぬしぐれ哉 去来
この句は、初め「凩の地迄」とあったのを芭蕉が「凩の地にも」と直した。
同一人が同一状況で歌っても漢詩で書く場合と和歌で書く場合では、違ってくる。
日本人が詩的表現の揺籃期から現在にいたるまで、漢字と仮名を用いて書き続けてきたという宿命的な事実を離れて日本の詩歌の歴史を語ることはできない、と大岡はいう。
不遇の貴族、紀貫之は官界に野心を持たず、日本語の新しい表記法(仮名)を用いて「古今和歌集」の「仮名序」を書き、「土佐日記」を書く。
古今和歌集については長谷川宏「日本精神史」加藤周一「日本文学史序説」について、次回勉強する。
新潮社
いや、言った方かな。
凩の地にもおとさぬしぐれ哉 去来
この句は、初め「凩の地迄」とあったのを芭蕉が「凩の地にも」と直した。
「地迄」といえば、「おとさぬ」とはいっているものの、しぐれは地面まで落ちてしまう重たさを感じさせるのにたいし、「地にも」なら、空から降るものは地面に達する前にたしかに反転して消えていく。こちらのしぐれなら、じつに軽く風に運ばれてしまうのが感じられるのである。
「迄」と「にも」、この「てにをは」こそ、日本語の総体の中で最も敏感に、事や物の変容、すなわち乾坤の変の微妙な細部を写しとることのできる部分にほかならない。
日本語においては、「言」の「端」においてこそ、霊妙な「ことば」の命が結晶して乾坤の変かとともにうちふるえる姿が最も鮮やかに見てとられるというのが、「てにをは」の肝要な所以を説いた詩人たちの考えだったのである。
それはまさに、「乾坤」というものを、「変」の姿においてとらえることをもって風雅の要諦とする思想に通じていた。
「ことば」の語源=「コト(言)」「ハ(端)」=コトのすべてではなく、ほんの端に過ぎないもの、そのことばのうちでも最もささやかな部分である「てにをは」が肝なのだと。
そして大岡は「日本的抒情」とはなにか、と自ら問い、「あえて気楽を装って、無知蒙昧な暴論を吐くことも、時には精神衛生にとってよろしいことがある。私は何の証明手段もなしに暴論を吐くが」、と断って以下のようにいう。
日本的抒情なるものは、この火山列島に住む日本人の民族的体質からにじみ出るいわく言い難いエッセンスなどというものではなく、実は日本語というものが日本民族にいやおうなしに強いる表現上のある種の特性にすぎないのではなかろうか。
その意味を明らかにすべく、「懐風藻」のなかの藤原万理の飲酒饗宴を讃美する漢詩と同時代人・大伴旅人の「万葉集」中の「酒を讃むる歌」十三首を比べて(ここに肝心の詩句を載せないのを許されよ)、
(漢詩は)はじめから明確な思想と明確な印象を刻みつつ、前へ前へと進行してゆく。たゆたったり、思いにふけったりする気配はない。漢文では「てにをは」にあたる語がほとんどなく、そのため、詩句の進行にも、「てにをは」によるぼかしの効果やひねりの効果のようなものがないこともこの印象を強めているのだる。ところが、旅人の歌を見れば明らかなように、和歌というものは、あらためて思う、何と「てにをは」の働く部分が多いものだろうか。それは「てにをは」のさざ波のまにまに、たゆたい揺れつつ進行する。情緒の微動がたえず増幅され、一首一首の歌を詠み進む者の印象は小刻みに変形しつつ、全体としてある種の感情的な塊りを形成してゆくのである。
「迄」と「にも」、この「てにをは」こそ、日本語の総体の中で最も敏感に、事や物の変容、すなわち乾坤の変の微妙な細部を写しとることのできる部分にほかならない。
日本語においては、「言」の「端」においてこそ、霊妙な「ことば」の命が結晶して乾坤の変かとともにうちふるえる姿が最も鮮やかに見てとられるというのが、「てにをは」の肝要な所以を説いた詩人たちの考えだったのである。
それはまさに、「乾坤」というものを、「変」の姿においてとらえることをもって風雅の要諦とする思想に通じていた。
日本的抒情なるものは、この火山列島に住む日本人の民族的体質からにじみ出るいわく言い難いエッセンスなどというものではなく、実は日本語というものが日本民族にいやおうなしに強いる表現上のある種の特性にすぎないのではなかろうか。
その意味を明らかにすべく、「懐風藻」のなかの藤原万理の飲酒饗宴を讃美する漢詩と同時代人・大伴旅人の「万葉集」中の「酒を讃むる歌」十三首を比べて(ここに肝心の詩句を載せないのを許されよ)、
(漢詩は)はじめから明確な思想と明確な印象を刻みつつ、前へ前へと進行してゆく。たゆたったり、思いにふけったりする気配はない。漢文では「てにをは」にあたる語がほとんどなく、そのため、詩句の進行にも、「てにをは」によるぼかしの効果やひねりの効果のようなものがないこともこの印象を強めているのだる。ところが、旅人の歌を見れば明らかなように、和歌というものは、あらためて思う、何と「てにをは」の働く部分が多いものだろうか。それは「てにをは」のさざ波のまにまに、たゆたい揺れつつ進行する。情緒の微動がたえず増幅され、一首一首の歌を詠み進む者の印象は小刻みに変形しつつ、全体としてある種の感情的な塊りを形成してゆくのである。
という。
同一人が同一状況で歌っても漢詩で書く場合と和歌で書く場合では、違ってくる。
日本人が詩的表現の揺籃期から現在にいたるまで、漢字と仮名を用いて書き続けてきたという宿命的な事実を離れて日本の詩歌の歴史を語ることはできない、と大岡はいう。
不遇の貴族、紀貫之は官界に野心を持たず、日本語の新しい表記法(仮名)を用いて「古今和歌集」の「仮名序」を書き、「土佐日記」を書く。
古今和歌集については長谷川宏「日本精神史」加藤周一「日本文学史序説」について、次回勉強する。
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jarippe at 2016-04-10 17:32
てにをは 何気なく使っていて
時々間違っていると思ったり
迷ったりしています
とっても日本語にとって大事なものですね
日本語の難しさらしいですが
使い方で全然意味が違ってしまいますね
その微妙さが粋なところかもしれませんね
きちんとした丁寧な日本語を普通に使いたいです
時々間違っていると思ったり
迷ったりしています
とっても日本語にとって大事なものですね
日本語の難しさらしいですが
使い方で全然意味が違ってしまいますね
その微妙さが粋なところかもしれませんね
きちんとした丁寧な日本語を普通に使いたいです
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saheizi-inokori at 2016-04-10 21:26
> jarippeさん、てにをはどころか主語述語もいい加減な連中が「日本を取り戻す」といい大学の文科系をなくすというのですから、もうめちゃくちゃでござりまするがな。
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福
at 2016-04-11 06:54
x
ご指摘の旅人の連作で最も有名なのは、
験なき物を思はずは一杯の濁れる酒を飲むべくあるらし、でしょうか。
胸中に少なからざる憂悶があったんでしょうが、
私は浅い次元で共感してしまいます、飲む方がいい、と(苦笑)
験なき物を思はずは一杯の濁れる酒を飲むべくあるらし、でしょうか。
胸中に少なからざる憂悶があったんでしょうが、
私は浅い次元で共感してしまいます、飲む方がいい、と(苦笑)
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j-garden-hirasato at 2016-04-11 07:00
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saheizi-inokori at 2016-04-11 08:36
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saheizi-inokori at 2016-04-11 08:37
> j-garden-hirasatoさん、使おうと思って使えるものではないけれど、そういうことに気を配っていたい、そうすればいつかひとことぐらいは使えるかもしれない、と思っています^^。
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dankkochiku at 2016-04-11 11:19
saheizi-inokoriさん 「詩歌の世界では『てにをは』こそが生命線」。うーん、それにしても、性別、地位、役割の別にかかわらず、「それわー」「~でぇ」「~とかー」など語尾を下げて強める話し方にはほとほと付いていけない感じです。これ言葉の乱れかそれともこちらが化石人間なのかと思い悩みます。
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mother-of-pearl at 2016-04-11 14:24
『てにをは』・・もっとも初歩的なレベルでの助詞の意味と用法を如何に導入するか!
日々の仕事の大半は“そこ”ですので、
こちらで高等レベルでの『てにをは』を拝見し、心が和みました。
私=I ではない、と知って唖然とするところからスタートです。
私自身が詩歌の世界から遠ざかっていることに気付かされました。
日々の仕事の大半は“そこ”ですので、
こちらで高等レベルでの『てにをは』を拝見し、心が和みました。
私=I ではない、と知って唖然とするところからスタートです。
私自身が詩歌の世界から遠ざかっていることに気付かされました。
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tona
at 2016-04-11 15:42
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saheizi-inokori at 2016-04-11 16:29
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saheizi-inokori at 2016-04-11 16:31
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saheizi-inokori at 2016-04-11 16:35
> tonaさん、そういう風に考えずに若い人のマネをする年配者がいますね。
それは聞きづらいです。
自然にうつってしまったのは、言葉の変化で、しょうがないのではないでしょうか。
キケマンというのですか、都立園芸高校のフエンスの金網から撮りました。
雑草の中に咲いていましたよ。
それは聞きづらいです。
自然にうつってしまったのは、言葉の変化で、しょうがないのではないでしょうか。
キケマンというのですか、都立園芸高校のフエンスの金網から撮りました。
雑草の中に咲いていましたよ。
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ikuohasegawa at 2016-04-12 05:45
イチョウの並木は芽吹いていますね。
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saheizi-inokori at 2016-04-12 10:40
by saheizi-inokori
| 2016-04-10 12:02
| 今週の1冊、又は2・3冊
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Comments(14)