時空を変える彫刻 長谷川宏「日本精神史その十 阿修羅像と鑑真和上像-天平彫刻二体」
2016年 03月 06日
奈良時代の人びとにとって、言語表現の次元で仏教に近づくことは容易なことではなかったが、仏教への思いを仏像彫刻や肖像彫刻にこめること、作り出された彫像のうちに仏教の精神性を感じとることは困難なことでも迂遠なことでもなかった。
710年の平城京遷都と並行して藤原氏の氏寺・興福寺が造営される。
734年に完成した西金堂に丈六の本尊・釈迦三尊像阿修羅像を中心に28体(現存は14体・すべてが国宝)の像が置かれた。
阿修羅像は八部衆の一つとして置かれたが、それは堂々たる像たちのなかでは、そっと後ろに控えた目立たない存在だったのだ。
他の七体と異なり武具をまったく身につけず、上半身と脛から下が露出し、外界に対して自然体でゆったりとかまえている趣があり、近づきやすさすら感じさせる。
しかし阿修羅の素晴らしさは何よりも三面の顔と六臂の腕の造型にある。
六本の腕のあいだには強弱はなく、たがいにバランスを取りながら周りの空間を自在に泳いでいる。
(阿修羅の)六臂は、空間に伸びてはいるが空間を切り裂いてはいない。六本の腕の伸び方に一定のリズムがあり、そのリズムに乗って六本の腕がたがいにことばを交わしているようなのだが、その会話が外へと広がり、まわりの空間をも会話に誘い込むようなのだ。六臂の動きによって無機的な空間に有機的な生命があたえられるといってもよい。
名文ではないだろうか。
六臂の交響する空間の真ん中に、若々しい三面の顔がある。
正面、ひそめた眉と見開いた切れ長の目のあたりに愁いの表情、自然体のゆったりした胴体と下半身が、顔に向かって緊張を高めていき、のびのびとした六臂の動きが、緊張感のある顔との対比で生命の輝きを増す。
左側面、下唇を噛んで怒りを抑えかねている、こんな表現は日本の仏像彫刻に例がない、やや感情が強く出すぎた顔は横顔だから許されるように思える。
右側面、おとなしく、すっきりと整った顔立ち、見る者の警戒心を解くような穏やかさがある。
仏師は少年の顔を造形したかったのではない。少年らしさを備えつつ、そこに永遠の精神性の宿る、人間を超えた人間の像を作りたかったのだ。永遠の精神性はこれまで壮年のすがたを取る如来像は、壮年もしくは青年のすがたを取る菩薩像として表現されることが多かった。同じ精神性を少年のすがたを取る像として表現する。天平彫刻に至って、仏像はそこまでの広がりを見せ、仏師はそれだけの技術的・精神的な力量を手中にしていたのだった。
高価な素材である漆や金箔を使う乾漆工法がこれだけの微妙な表現を作り出すことができたのだ。
はじめ大僧都として東大寺において、聖武太上天皇以下多くの権力者や沙弥に授戒を行い鎮護国家の思想としての仏教という、権力機構に組み込まれた(不本意にも)。
758年唐招提寺の創建に伴い、そこに移り受戒した僧にたいし規律の実践・修行を指導する。
763年春、弟子の忍基が不吉な夢を見て、鑑真の死の前兆と悟り、弟子たちに呼びかけ結跏趺坐の肖像を作った。
鑑真はその6月、かねての望み通り結跏趺坐の姿勢を取ったまま亡くなった。
日本の肖像彫刻の嚆矢とされる、この像がそのまま人間の理想形の表現に到達していることに驚かなければならない。
仏像制作の歴史のなかで培われてきた美意識と、繊細にして精緻な乾漆の技術と、和上の人柄と言行にたいする限りない敬意とが、一つに融け合って生み出された名作。
仏の道を歩みつづけ、死を間近にしてなお同じ道を歩み、いまや仏と見紛うばかりの崇高さを身につけた求道の人、
作り出されたのが人間なのか、仏なのか。その区別がそれほど意味をもたないような境地で制作されたのが和上像であった、、
少年のすがたを取った興福寺の阿修羅像は、仏から人間へと近づくところになった像であり、、鑑真和上像は人間から仏への道を歩んでなった像といえはしないか。
そのような弟子たちと相対して穏やかに無心に端座し続ける鑑真。
そこは濃密な時空だったと想像したい。
遅くとも18日までには届くはずです。
若い頃は何本も平気で煽ったのに、今は燗酒。
せんじつは夜中に腹が膨れて痛くなり、なんどかトイレに行ったのですが、翌日医者から薬を貰い寝ていたら治りました、やはりその前に熱燗を呑んだのが暖め過ぎになっていたのかもしれないです。
要は過ぎないことですね。
早とちりは私のことです。
鑑真像がもし家にあって毎日見られたら私の人生は変わっていました。
たしかに私でももうすこしまともになりそうです^^。
もう一度、じっくり時間をかけて会いたい。