芭蕉のたどり着いた苦しみ 長谷川櫂「芭蕉の風雅 あるいは虚と実について」

 古池や蛙飛こむ水の音

この句を「古池に蛙が飛び込む水の音がした」と、読んではいけない。
「蛙の水に飛び込む音を聞いたら古池の茫漠とした姿が心に浮かんだ」と読む。

それまでの言葉遊びにすぎなかった、貞門俳諧や談林俳諧の停滞を脱して、心の世界を打ち開いた句であった。
それまでだったら、蛙は鳴くものであり、取り合わせは古池ではなく山吹だった。
現に芭蕉が「蛙飛こむ水の音」という中七下五を得たとき、傍らにいた其角は「山吹をかぶせたらどうか」と意見を言って芭蕉に却下される。
 山吹といふ五文字は風流にしてはなやかなれど、古池といふ五文字は質素にして実(じつ)也。実は古今の貫道なれば、
と。
「虚に居て実にあそぶ」が芭蕉の風雅だ。
俳諧が古代から心の文学であった和歌に肩を並べた、俳句という文学にとっての大事件だったと、長谷川は書いている。
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深川の草庵でこの句を得ていわゆる蕉風を開眼した芭蕉は「おくのほそ道」の旅に出る。
蕉風とは何か、芭蕉が求めた風雅とはなにか。
芭蕉(とその門弟たち)の遺した、「冬の日」「はるの日」「あら野」「ひさご」「猿蓑」「炭俵」「続猿蓑」の七つの俳諧集の評釈を軸に蕉風の発展展開を明らかにする。

七部集という大河の流れに写しだされるのは芭蕉の風雅の変遷である。
芭蕉はみちのくの歌枕をめぐることによって、時の流れによって破壊され、または辛くも耐えている歌枕の姿を目にし、時間の猛威とこの世の無常に打ちひしがれる。
 五月雨の降のこしてや光堂
そして、山寺、月山、日本海、佐渡などで、宇宙・月・太陽・天の川などを観ることで不易流行、「太陽や月や星がめぐるようにすべては変化(流行)するが、何も変わらない(不易)」という宇宙観を得る。
 閑さや岩にしみ入蝉の声
 雲の峰幾つ崩て月の山

宇宙めぐりから人間界に、浮世帰りをした芭蕉は、さまざまな別れと遭遇する。
ここで「かるみ」という人生観にたどりつく。
「人間界がいかに別れに満ちていようと、人生がいかに悲惨であろうと、一喜一憂するのではなく、宇宙のような大きな目で眺めたい」
 蛤のふたみにわかれゆく秋ぞ
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芭蕉の真髄は単独の俳句(発句)ではなく連衆と巻く俳諧にある。
俳諧は句と句の「間・ま」の詩情を味わう。
句と句の間に横たわる言葉の空白と沈黙、そこで一瞬のうちに主体や場面の転換が行われたり、深淵がのぞき永遠が宿る。

芭蕉の生きた江戸時代は応仁の乱以後の長い内乱によって破壊され失われた古典復興の時代だった。
古典文学の詳細かつ膨大な注釈書を著した北村季吟に芭蕉は薫陶を受けて育った。
古典を自由自在に使いこなすことができた芭蕉の古典とのつきあい方は変化する。
当初は先人の遺した古典をそのまま取り入れた。
やがてそっくりそのままでなく、失われたよきものに似ている「面影」を詠む(「猿蓑」)。
さらに、どこを探しても古典が見当たらない「炭俵」にいきつく。
ここでは越後屋の手代など、古典の知識のない連衆を集めた。
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長谷川は慨嘆する。
 
 人類に書物、都市に図書館という記憶装置があるように、ひとつひとつの言葉もまた記憶の集積である。言葉が記憶しているもの、それこそ言葉が使われてきた来歴つまり古典なのである。
 言葉を失った人間が虚ろであるように、記憶を失った人類も都市もまた虚ろである。同様に記憶を失った言葉、いいかえればものを指示するだけの記号と化した言葉などまっとうな言葉とはいえない。


芭蕉は性急に古典離れ・古典封じをせずに、「かるみ」のもとに古典をどう生かすか、「面影」という手法をさらに進めた古典との新しい関係を築くべきだったという。
その兆しが見えたのが芭蕉最後の旅の病の床の句だ。

 秋深き隣りは何をする人ぞ
 旅に病で夢は枯野をかけ廻る


どちらも杜甫の詩を踏まえているが、杜甫の詩を知らなくても通じる。
もう少し長生きをしていれば!と惜しみ嘆く長谷川。

「炭俵」の古典離れは芭蕉の死後、支考によって「美濃派」として全国にゆきわたる。
その土壌に一茶が現れたのだ。
芭蕉の古典離れが現在の俳句の大衆化をもたらしたともいえる。
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俳句の大衆化、誰でも俳句が詠めるということは「実に居て虚にあそぶ」人々が大量に出現することにほかならない。
この圧倒的な数の現象が「虚に居て実をおこなふ」べき俳句の質を変えていくことになる。


俳句にとって困難な時代になった現代、芭蕉の体現した風雅の世界はどのような姿をとるのか、と問題提起で本書が終わる。

母が生きていたらなんというか。
「そんなこといわれても」と笑ったろうな。

筑摩書房
Commented by at 2016-02-25 06:53 x
芭蕉といえば『金明竹』。
あのサゲも「古池や」を踏まえてのことでした。

「古池や」もそうですが、芭蕉は「耳(聴覚)」の詩人だそうです。
その前提が現代の失った静寂さなんでしょうね。

Commented by j-garden-hirasato at 2016-02-25 07:05
先に紹介いただいた「京都ぎらい」、
読み始めました。
サクサクっと読めそうですが、
通勤電車の中だけなので、
読み切るまで、
時間がかかりそうです(笑)。
Commented by saheizi-inokori at 2016-02-25 08:40
> 福さん、そうでした!芭蕉の風雅が前座を育て名人落語家も生んでいるのですね^^。
Commented by saheizi-inokori at 2016-02-25 08:41
> j-garden-hirasatoさん、私も現役時代は電車が読書空間でした。
懐かしいなあ。
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by saheizi-inokori | 2016-02-24 12:49 | 今週の1冊、又は2・3冊 | Trackback | Comments(4)

ホン、よしなしごと、食べ物、散歩・・


by saheizi-inokori