耐えてゆくだけでやっとこさ? 片山杜秀「見果てぬ日本 司馬遼太郎・小津安二郎・小松左京の挑戦」

耐えてゆくだけでやっとこさ? 片山杜秀「見果てぬ日本 司馬遼太郎・小津安二郎・小松左京の挑戦」_e0016828_13110073.jpg
小松左京軍国少年は原爆が広島に落ちてもへこたれなかった。
きっと日本ももっとすごい爆弾を作ってアメリカをやっつけるだろう、と。
だから戦後になって日本の上層部はバラバラ、とても進め一億体制になどなっていなかったことを知って愕然とした。

何十年も草一本生えないだろうと言われた広島に草が生え、ヤクザが入ってきて仁義なき街にしてしまった。
日本人の終末観が挫折したのだ。
島国ならではの甘えの構造に安住する日本人に対して小松は、滅びるか生き残るかのギリギリのところで、常に終末を意識して、原子力とも真摯につきあい続けていかなければならないと説教する。
「日本沈没」「復活の日」「さよならジュピター」、、ダンテの「神曲」の申し子ともいえる小松は科学と空想を駆使して(第二次大戦の時のような)成り行き任せの者を許さない、すべての者が崖っぷちに立たされる小説を書き続けた。

日本を沈没させるほどの地震が来ても、3・40年ほどしのげれば核融合型の原発が完成して、平和と繁栄のユートピアができている。
小松は1976年「日本人と原子力」において山本七平にこう語った。
その35年後に3・11がきた。核融合型はいつできるやら。

 小松の誤算、いや戦後日本産業文明の大誤算は、この時間の計算間違い、未来の尺度の読み違えにあったと言えるだろう。

片山の総括だ。
耐えてゆくだけでやっとこさ? 片山杜秀「見果てぬ日本 司馬遼太郎・小津安二郎・小松左京の挑戦」_e0016828_13135587.jpg
司馬遼太郎は、帝大に落ち外大でモンゴル語を学び、モンゴルに憧れ、北方騎馬民族が土地にしがみついている農耕民族の中国とロシアを略奪するのを胸躍らせる。

騎馬民族だけではない、南方海洋民族もすばらしい。
神武東征とは海人の物語ではないか。
司馬は海洋民族と騎馬民族の末裔(と司馬が考える)坂東武者が日本を近代化しなければならないと思い込む。
土佐だ、淡路島だ、伊予だ、讃岐だ、、坂本龍馬、高田屋嘉兵衛、秋山兄弟、正岡子規、空海、、彼らの自由にして不羈・奔放な働きが新しい日本を作った。
それをダメにしたのは土地を金を生み出すものとする腐った・悪しき資本主義だ。
司馬は土地の公有化を真剣に訴えるが、たとえば松下幸之助に一蹴される。
アクチュアリテイがない、ロマンの名残でしかない怒りだった。

司馬が愛し描いた主人公たちは志半ばで死んでしまう。
生きていれば?
彼ら、街道をゆく旅人の末裔が(土地にしがみつく定住民ではなく)現代を作ったのではないか。

 司馬は騎馬民族や坂本龍馬をつぶてにして現代を撃とうとするのだが、撃たれているはずの政治家も財界人も誰も彼もチンギス・ハンや幕末の志士の現代版を気取って喜んでしまう。司馬に励まされたつもりになる。

 司馬はマイノリテイのつもりで実はマジョリテイ、、
司馬のロマンは本質的に悲劇である。


言えてる、と思う。
耐えてゆくだけでやっとこさ? 片山杜秀「見果てぬ日本 司馬遼太郎・小津安二郎・小松左京の挑戦」_e0016828_13202777.jpg

「兵隊にはいつも現実があって、それ以外の夾雑物は、不必要なのだ」
中国戦線の最前線に行った小津安二郎は、兵隊が戦争のさなかで死体を見ても大騒ぎしないのと同様に一般市民も日常生活の中で大ごとに直面しても、うまい映画のうまい俳優のように達者に喜怒哀楽を表現しはしないと思う。
「雲をつかむような、棒杭を抱いているような」「ぬうぼう」なのが本物の人間なのだ。
まさに笠智衆なのだ。

戦いの勝敗を決するのは最後の五分、日本の兵隊は最後の五分に強かった。
精神力・体力のあり余っているのではない日本兵は、ふだんは我慢、寡黙、無表情、たくさん思い・考えていることは押し殺している。
そして最後の五分に集中する、と小津はみた。
そんな日本人像を描くのが小津映画。

 小津の映画に過去を振り返る趣味はない。現在進行形の日常の難問にいつも手一杯なのが、小津のドラマというものだからである。未来はというと「最後の五分」がくるまでお預けである。かくして小津の映画には過去も未来も描かれない。日常という名の現在ただいまがあるのみだ。しかもその現在は、もちろん何らかの歴史意識のもとに整理されることはない。黒澤映画と違って、倫理的な善悪の価値で裁かれることもない。現在は戦場のように不安定で、耐えてゆくだけでやっとこさなのだ。いいも悪いもへったくれもない。

懐疑的な映画「羅生門」のさいごに肯定的なシーンを挿入しなくては我慢できない健やかな倫理観の黒澤、彼が必要としたのは志村喬であり三船敏郎、表情豊かに内面を表現する。
小津も懐疑は嫌う、が、それは全肯定で満足するのではない。
「そこに存在するものは、それでよしッ」なのだ。

 突破できると思うな。忍耐し、ひたすら待て。出口なしが大前提、あったとしても容易に辿り着けようはずもない。苦悩に顔を大げさに歪めてもどうにもならない。疲れるだけだ。

笠智衆なのだ。
耐えてゆくだけでやっとこさ? 片山杜秀「見果てぬ日本 司馬遼太郎・小津安二郎・小松左京の挑戦」_e0016828_13220320.jpg
「天気のいい音楽」だけでいい、いろんな場面に対応するいちいちの音楽は作らない。
カメラは低い位置に固定する。
手間を少なく、力を使わず、高低を作ってその格差のエネルギーに頼って奇を衒わず、角を立てずに、片山はこれを小津の「円の思想」だという。
堀川周平、曽根周吉、間宮周吉、平山定郎、平山周吉、三輪周吉、平山周平、、小津映画の登場人物の名は、山、周、平、輪、、円なるものだってさ。

戦争を経験したことで日本を見る目が変わった三人の天才。
その日本を、一人は未来に賭けることによって、一人は過去を取り戻すことによって、どうにかなる国にしたいと願い・行動した。
小津だけが現在に生きるー最後の五分のための余力を残して不機嫌な顔をしてーことを選んだ。
耐えてゆくだけでやっとこさ? 片山杜秀「見果てぬ日本 司馬遼太郎・小津安二郎・小松左京の挑戦」_e0016828_13224400.jpg
中身は濃いが語り口は講釈師ーいささか司馬流ーの面白さ。

新潮社

Commented by k_hankichi at 2016-02-19 19:36
この間、店頭で手に取って眺めて、事情があって平棚に戻してしまったのですが、saheiziさんの書評で、ああ買い求めよう、と思いました。
Commented by saheizi-inokori at 2016-02-19 21:52
> k_hankichiさん、ぜひ、お薦めです。
小津映画の秘密だけでも買う価値あるかもしれない。
「いい天気の日の音楽」なんて実に面白い!
Commented by j-garden-hirasato at 2016-02-20 06:54
東京は春爛漫ですね。
黄色いのは、
何の花でしょうか。
長野では見られませんね。
Commented by saheizi-inokori at 2016-02-20 08:21
> j-garden-hirasatoさん、春爛漫とまではもうちょっとですね。
黄色、ミモザです。ググってみると本来のミモザはオジギソウ、この黄色いのはフサアカシアが本とらしい。ややこしいですね。
シャンパンとオレンジジュースで作ったカクテルがミモザといいます。
おしゃれなやさしいカクテルです。
Commented by unburro at 2016-02-20 12:01
小松左京、そして、手塚治虫も、
21世紀の日本、そして世界が、こんなことになっていようとは…
想像しなかったのですねえ。
そりゃあ、SF作家たちは、神様ではないけれど、
当時の私たちにとっては、預言者のような存在でした。

もう、目を覚まさなくては、と思います。
原発はもちろん、自動運転の車とか、宅配ドローン、お手伝いアンドロイド、などのSF的夢は捨てて、子供や高齢者の貧困とか、難民問題とか、現実の苦しみを減らす方法を、全力で探さなくては…と思うのです。

でも、そっちの方がはるかに困難ですね…
ミモザ!カクテル飲みたい…
Commented by saheizi-inokori at 2016-02-20 22:33
> unburroさん、オートメーションバカに核バカですね、ついでにグローバリズムバカ、新自由主義バカ、バカばっかり^^。
名前
URL
削除用パスワード

※このブログはコメント承認制を適用しています。ブログの持ち主が承認するまでコメントは表示されません。

by saheizi-inokori | 2016-02-19 13:26 | 今週の1冊、又は2・3冊 | Trackback | Comments(6)

ホン、よしなしごと、食べ物、散歩・・


by saheizi-inokori
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31