こちふかばおもいおこせよ古のふみ読むひとの心根を 長谷川宏「日本精神史 上 その八 写経ー漢字の形と意味の崇拝」
2016年 02月 14日
カミさんを伴い羽根木公園に行った。
バスを降りて(俺一人なら歩いちゃうのだが)2キロほど歩くと上着を着ていられないほどの暑さ。
その名も梅が丘駅を過ぎると公園につく。

木によって違いがあるが全体としては七分咲きってところかな。
屋台なんかも出ていて家族連れやカップルが楽し気にしている。

帰りは同じ道はつまらないので世田谷線の山下に出て上町の「ルーガン」で肉まん(娘一家に送ってやる)、小さな手作り和菓子屋で草団子を買って帰る。
一万キロの旅也。

日本精神史・その八は「写経ー漢字の形と意味の崇拝」。
文字のなかった日本が中国の冊封体制下に入って国書を交換するためには漢字の使用が必要だった。
国内での文字資料が急激に増えるのは七世紀後半から、とくに木簡の出土がはなはだしい。
文書にもとづく国家運営をめざす律令国家の意志とは、文字の普及の可能性を信じ、可能性を現実のものたらしめようとする意志にほかならなかった。

しかし古代の日本人にとって、漢字は、借用・転用すべきもの、うまく使いこなすべきものとしてだけあるのではなく、もっとずっと価値あるものとして人びとの前に置かれていた。
漢字それ自体が中国の文化の輝きを発する存在だった。
七世紀後半から八世紀にかけて国家の主導のもとに盛んに行われた写経。
漢文を日本語に訳すのではなくまったくそのまま模倣して写す。

文字を知らなかった人びとが、話しことばの音のほかに文字があり、その文字がことばをあらわすことを了解する。
縦・横・斜めに走る数本の線の図形と、ありとあらゆるもののイメージとが結びつく、目くるめく経験だった。
漢字伝来のはるか以前から存在していた言霊(ことばに不思議な霊威が宿る)信仰が改めて呼び覚まされ新鮮な働きをする。
音としてのことばと違って文字は消えない、言霊に持続性が与えられる。
文字に神聖さが付与された。
漢字を尊崇する心情に支えられ、尊崇の気持ちをさらに高めるものとして古代の写経という行為が存在した。

緊張して書写する行為のなかで、漢字や経文にこもる神々しい霊威がおのれの体と心に乗り移るという確かな実感こそが写経という国家的大事業を下から支える共同の幻想だった。
であればこそ写経は正確でなければならない。
官営の写経所には経師(きょうじ・写経者)のほかに校生(きょうしょう・校正者)と装潢(そうこう・表装者)がいて、経師の間違いには罰則が設けられていた。

現存する写経のうち、最古のものとされるのが686年に書写された「金剛場陀羅尼経(こんごうじょうだらにきょう)」。
紫紙に金泥をもって書かれた色あざやかな「紫紙金字金光明最勝王経」の美しさは格別だ。
金字写経は料紙を平滑にするために特別の職人が猪の牙で紙面を磨く。
金粉を膠水に溶かした金泥で文字を書く。
文字の金色と料紙の濃い紫とが映発し合う。
そこには宗教心の枠には収まりきらない美への道へと踏み出すものがあった。

謹厳な尊崇の対象を美しく造形しようとする美意識は、外来の高踏な思想や文化を感覚的にもせよ日本的な心性になじみやすいものにする働きをもっていた。
造寺・造仏の場合も写経の場合も、そこに働く古代人の共同の美意識は、美を求めるというその姿勢において仏教の日本化ないし土着化の志向を内に秘めていたのだ。

忠実な模倣の対極が、漢字を使って日本語を表記する、漢字を崇め敬うのではなく、便利な道具として使いこなす行為だ。
古代人の驚くべき柔軟さは、相応の知性と文化があったればこそ。
「紫紙金字金光明最勝王経」の文字群と宮都から出土する数万の木簡の文字群、その間の隔たりに見合うような、時代精神の幅の広さ。
それあればこそ、漢字を自分たちの書きことばに変じ、漢字から片仮名や平仮名を作り出し得た。

中国語の文字である漢字を日本語の文字にするという大変革事業は模倣の技術だけで達成できるはずがない。
多くの人びとの数百年にわたる、独創ともいえるし模倣ともいえる、多種多様な技術と試行と経験が積み重なるなかから、ようやく漢字は日本語の文字として定着していったのである。

現代のことば・日本語の乱れというものが古代人の「独創ともいえるし模倣ともいえる、多種多様な技術と試行と経験が積み重ね」とどこかで通じ合っているのだろうか。
バスを降りて(俺一人なら歩いちゃうのだが)2キロほど歩くと上着を着ていられないほどの暑さ。
その名も梅が丘駅を過ぎると公園につく。

屋台なんかも出ていて家族連れやカップルが楽し気にしている。

一万キロの旅也。

文字のなかった日本が中国の冊封体制下に入って国書を交換するためには漢字の使用が必要だった。
国内での文字資料が急激に増えるのは七世紀後半から、とくに木簡の出土がはなはだしい。
文書にもとづく国家運営をめざす律令国家の意志とは、文字の普及の可能性を信じ、可能性を現実のものたらしめようとする意志にほかならなかった。

漢字それ自体が中国の文化の輝きを発する存在だった。
七世紀後半から八世紀にかけて国家の主導のもとに盛んに行われた写経。
漢文を日本語に訳すのではなくまったくそのまま模倣して写す。

縦・横・斜めに走る数本の線の図形と、ありとあらゆるもののイメージとが結びつく、目くるめく経験だった。
漢字伝来のはるか以前から存在していた言霊(ことばに不思議な霊威が宿る)信仰が改めて呼び覚まされ新鮮な働きをする。
音としてのことばと違って文字は消えない、言霊に持続性が与えられる。
文字に神聖さが付与された。
漢字を尊崇する心情に支えられ、尊崇の気持ちをさらに高めるものとして古代の写経という行為が存在した。

であればこそ写経は正確でなければならない。
官営の写経所には経師(きょうじ・写経者)のほかに校生(きょうしょう・校正者)と装潢(そうこう・表装者)がいて、経師の間違いには罰則が設けられていた。


金字写経は料紙を平滑にするために特別の職人が猪の牙で紙面を磨く。
金粉を膠水に溶かした金泥で文字を書く。
文字の金色と料紙の濃い紫とが映発し合う。
そこには宗教心の枠には収まりきらない美への道へと踏み出すものがあった。

造寺・造仏の場合も写経の場合も、そこに働く古代人の共同の美意識は、美を求めるというその姿勢において仏教の日本化ないし土着化の志向を内に秘めていたのだ。

古代人の驚くべき柔軟さは、相応の知性と文化があったればこそ。
「紫紙金字金光明最勝王経」の文字群と宮都から出土する数万の木簡の文字群、その間の隔たりに見合うような、時代精神の幅の広さ。
それあればこそ、漢字を自分たちの書きことばに変じ、漢字から片仮名や平仮名を作り出し得た。

多くの人びとの数百年にわたる、独創ともいえるし模倣ともいえる、多種多様な技術と試行と経験が積み重なるなかから、ようやく漢字は日本語の文字として定着していったのである。

貴重で高価な料紙に、書かれた写経を見る度に、
間違ったらどうしたんだろう?
と、心配していましたが、間違うような安易な心構えではない、
高い意識に基づいて書かれていたんですね。
その上、罰則があったとは…
色々、納得がいきました。
間違ったらどうしたんだろう?
と、心配していましたが、間違うような安易な心構えではない、
高い意識に基づいて書かれていたんですね。
その上、罰則があったとは…
色々、納得がいきました。
0
> j-garden-hirasatoさん、梅は桜と違って花の時期が長いから3月上旬まで梅まつりをやっています。
この団子、初めてでしたがうまかったですよ。
昔ながらの小さな店にいいものがあるのが楽しいです。
この団子、初めてでしたがうまかったですよ。
昔ながらの小さな店にいいものがあるのが楽しいです。

もぉ、何年も梅を見てないぞ〜〜〜〜〜;;
決断がつきました。
日本精神史 購読します。
日本精神史 購読します。
> 蛸さん、たしかに熱帯に梅は似合わない、寒さに耐える姿が見所です。
> ikuohasegawaさん、こうやって少しづつ読むのもいいです。
ミステリと違って結末とかストーリーを追うものではないですから。
これを読んで本箱から「国宝展」の図録を取り出してみたり、「日本文学史序説」を参照したり、、楽しいです。
ミステリと違って結末とかストーリーを追うものではないですから。
これを読んで本箱から「国宝展」の図録を取り出してみたり、「日本文学史序説」を参照したり、、楽しいです。
by saheizi-inokori
| 2016-02-14 12:00
| 今週の1冊、又は2・3冊
|
Trackback
|
Comments(10)