ソウル 又行きました 司馬遼太郎「韓のくに紀行 街道をゆく(2)」(朝日文庫)
2006年 01月 07日
生まれ故郷といえばいいのだろうか。朝鮮で生まれて3歳くらいで引揚げてきた。母が釜山高女出身、釜山港を生きた心地もなく俺を連れて引揚げてきたのだ。8年前、戦後初めて母を釜山に連れて行った。なつかしの母校を探して1時間ほど市内を一日契約(当時は7000円くらいでできた)のタクシー運転手が探しまわって、「ここじゃないだろうか」という学校で「似ているけれど違う」と母が言う。母も俺たちも「もういいから」というのに、運転手は学校の職員室に入っていって何か言っている。と思ったら暫くしてある先生が出てきた。授業中なのに日本語が出来るからということで引っ張り出された先生。事情を話したらニッコリ笑って学校のメモリアルホールに案内してくれた。
二階に上がったら思い出の写真が貼ってある、そのすぐ入り口で母が叫んだ。
「そうよ!ここよ、この写真のそこよ」。セピア色の写真の校舎の二階の右隅が母の教室だったと。建て直されて別の学校になっていたから分からなかったのだ。
母が涙。案内した先生も思わず涙。母がいたころは日本は侵略者、その子弟がエラソーに学んだところが釜山高女だ。韓国の人から見たらケッタクソ悪い連中が訪ねてきたのに、タクシー運転手といい学校の先生といい・・俺も一緒に行った子供たちもグッときた。校長先生にまで会った。残念なのはそのとき頂いたお名前などがハングルでちっとも分からないからそれなりになってしまったのだ。
それが俺の朝鮮訪問第一回。そして昨年12月始めてソウルへ。
三回目、5日から今日までソウルに行った来た。司馬遼太郎とともに、と言うとかっこよいが同行の皆さんがいろいろしている間とかに読みつつ過ごしたということ。でも俺の”フルサト”がグット近づいた。
明日少し紹介します。写真のバックにあるのは直指という世界一古い金属活字による「大蔵経」の影印本、プラザホテル・ロビーに展示してあった。
二階に上がったら思い出の写真が貼ってある、そのすぐ入り口で母が叫んだ。
「そうよ!ここよ、この写真のそこよ」。セピア色の写真の校舎の二階の右隅が母の教室だったと。建て直されて別の学校になっていたから分からなかったのだ。
母が涙。案内した先生も思わず涙。母がいたころは日本は侵略者、その子弟がエラソーに学んだところが釜山高女だ。韓国の人から見たらケッタクソ悪い連中が訪ねてきたのに、タクシー運転手といい学校の先生といい・・俺も一緒に行った子供たちもグッときた。校長先生にまで会った。残念なのはそのとき頂いたお名前などがハングルでちっとも分からないからそれなりになってしまったのだ。
それが俺の朝鮮訪問第一回。そして昨年12月始めてソウルへ。
三回目、5日から今日までソウルに行った来た。司馬遼太郎とともに、と言うとかっこよいが同行の皆さんがいろいろしている間とかに読みつつ過ごしたということ。でも俺の”フルサト”がグット近づいた。
明日少し紹介します。写真のバックにあるのは直指という世界一古い金属活字による「大蔵経」の影印本、プラザホテル・ロビーに展示してあった。
by saheizi-inokori
| 2006-01-07 23:31
| こんなところがあったよ
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