寂しいな、閑さんはもういない
2016年 02月 11日
芸能の世界のいろんな方が亡くなる。
今になって急に亡くなる方が増えたのではないのに、亡くなる人が多いように感じる。
それは同じ時間を共にしたからだ。
知らない人の死亡報道とは違って、身近に起きたことのように感じるからだろう。
今になって急に亡くなる方が増えたのではないのに、亡くなる人が多いように感じる。
それは同じ時間を共にしたからだ。
知らない人の死亡報道とは違って、身近に起きたことのように感じるからだろう。
ずっと一緒に歩いていた仲間が消えてしまったような気がする。
せんじつ亡くなった能楽師・宝生閑・81歳は、ガンの苦しみに耐えて舞台に立ち続けることをこう言ってた。
(能を演じることで)お客様を慰め、お客様から慰められる。だからどんなに辛くても舞台に立ち続けなければならない。
そう、俺もなんかいも慰められたんだ。
さいごに宝生閑の舞台を観たのは去年の11月、国立能楽堂で友枝昭世と「砧」を演じたときだった。
九州に妻をおいたまま訴訟のことで上京して三年、ことしは帰るだろうと言ってきて楽しみにしていたのに、またもや今年も帰れそうにないとの知らせ。
妻(シテ・友枝)は、夫の心変わりを疑い病を得て死んでしまう。
帰国した夫(ワキ・宝生閑)が回向すると妻の幽霊が現れて妄執のために堕地獄の苦しみに遭っていると訴える。
「砧」のワキを演じるときの気持ちを語った閑さんの言葉をもういちど紹介する。
自分の犯した罪に対して、単に文を送って年の暮れにも帰れないと言っただけで人間は死んじゃうのかなとか、人の気持ちというのはただ文字で伝えようとしても伝わらない、心で伝えなければ伝わらないんだという、そんなところを感じるのが『砧』だという気がするね。
(妻の亡霊にする合掌について)『砧』の合掌が単なる合掌と違うのは、今しがた死んだ人の弔い、という感覚が持てないと駄目なんだよね。通夜葬儀の合掌と何回忌の合掌とは違うでしょ。それと同じでね。僕の感覚からすれば、本当の悲しみをしょった通夜葬儀の読経の在り方は違うと思うんだ。そういう思いで合掌しなければ駄目だと思うね。(略)
『砧』では、本当に申し訳ないという気持ちと、成仏してくれという気持ちを一心にこめて合掌しようと思ってやっている。
昨日、テレビで再放送していた「耐えて慰めて生きる~能楽師ワキ方 宝生閑~」。
たった30分の番組だったが、観ていて強まったのは、閑さんがもういないんだ、という喪失感。
ワキ方の家に生まれついて、子供のころからわけもわからず厳しい修行で、さいしょは嫌だったが、
ワキは舞台に出る前からその時代の人間になりきって、お客をその世界に連れていくのが役割だから、
その時代の人間になることでみんなの知らないところに行ける
そう思ったら楽しくなった、といってた。
その時代ばかりじゃなく、幽界との間に立って俺たちに幽霊を見せてくれ、こちとらの身のはかなさを教えてくれたのも閑さんだった。
友枝さんが「この半世紀の能を支えたのは閑さんだった」ともいってた。
半世紀も続いている謡のお弟子さんたちに居酒屋で囲まれて
文化のなかで「和む」ってのがいちばんだいじじゃねえの
と、ほんとに和んだ笑顔でべらんめえ。
改めてテレビに向かって合掌した。
(能を演じることで)お客様を慰め、お客様から慰められる。だからどんなに辛くても舞台に立ち続けなければならない。
そう、俺もなんかいも慰められたんだ。
さいごに宝生閑の舞台を観たのは去年の11月、国立能楽堂で友枝昭世と「砧」を演じたときだった。
九州に妻をおいたまま訴訟のことで上京して三年、ことしは帰るだろうと言ってきて楽しみにしていたのに、またもや今年も帰れそうにないとの知らせ。
妻(シテ・友枝)は、夫の心変わりを疑い病を得て死んでしまう。
帰国した夫(ワキ・宝生閑)が回向すると妻の幽霊が現れて妄執のために堕地獄の苦しみに遭っていると訴える。
自分の犯した罪に対して、単に文を送って年の暮れにも帰れないと言っただけで人間は死んじゃうのかなとか、人の気持ちというのはただ文字で伝えようとしても伝わらない、心で伝えなければ伝わらないんだという、そんなところを感じるのが『砧』だという気がするね。
(妻の亡霊にする合掌について)『砧』の合掌が単なる合掌と違うのは、今しがた死んだ人の弔い、という感覚が持てないと駄目なんだよね。通夜葬儀の合掌と何回忌の合掌とは違うでしょ。それと同じでね。僕の感覚からすれば、本当の悲しみをしょった通夜葬儀の読経の在り方は違うと思うんだ。そういう思いで合掌しなければ駄目だと思うね。(略)
『砧』では、本当に申し訳ないという気持ちと、成仏してくれという気持ちを一心にこめて合掌しようと思ってやっている。
昨日、テレビで再放送していた「耐えて慰めて生きる~能楽師ワキ方 宝生閑~」。
ワキ方の家に生まれついて、子供のころからわけもわからず厳しい修行で、さいしょは嫌だったが、
ワキは舞台に出る前からその時代の人間になりきって、お客をその世界に連れていくのが役割だから、
その時代の人間になることでみんなの知らないところに行ける
そう思ったら楽しくなった、といってた。
その時代ばかりじゃなく、幽界との間に立って俺たちに幽霊を見せてくれ、こちとらの身のはかなさを教えてくれたのも閑さんだった。
友枝さんが「この半世紀の能を支えたのは閑さんだった」ともいってた。
半世紀も続いている謡のお弟子さんたちに居酒屋で囲まれて
文化のなかで「和む」ってのがいちばんだいじじゃねえの
と、ほんとに和んだ笑顔でべらんめえ。
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at 2016-02-11 21:56
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
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reikogogogo at 2016-02-11 22:38
本当に人の別れは辛いもの、時間の経過とともに癒えるかと思いきや、一層悲しみが後押しをする。
生ある限り幾たびも繰り返される、残された者のあじわう寂しさ、悲しみですね。
生ある限り幾たびも繰り返される、残された者のあじわう寂しさ、悲しみですね。
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ginsuisen
at 2016-02-11 23:58
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閑さんとの出会いも早10年以上に。当然、そういう日もくるとわかってはいたものの・・哀しすぎて。最後に拝見したお舞台でお元気そうだったのが、せめてもの救いです。
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at 2016-02-12 07:56
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
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saheizi-inokori at 2016-02-12 09:16
> reikogogogoさん、生きている間はそれがいつまでも続くような錯覚がある・そう思い込みたくなる願望がある。
亡くなってみてはじめてその人の存在の大きさを知って大きな喪失感をもちました。
亡くなってみてはじめてその人の存在の大きさを知って大きな喪失感をもちました。
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saheizi-inokori at 2016-02-12 09:18
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saheizi-inokori at 2016-02-12 09:19
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at 2016-02-12 10:09
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
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at 2016-02-12 11:31
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
by saheizi-inokori
| 2016-02-11 11:24
| 能・芝居
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Comments(9)