仏教伝来、仏像の衝撃 長谷川宏「日本精神史 上」その6

ダボスで自身の涜職スキャンダルについて尋ねられて、「安倍総理に迷惑をかけて忸怩たる思いだ」と語る甘利。
筋違い・場違いな謝罪をして安倍組のやくざ集団的体質を露呈した。
彼がご迷惑をおかけしているのは、国民でありアホノミクスに期待している世界の金融機関や新自由主義政権であって、親分に謝るのは別の場で、指を詰めるなり、除名されるなり晋三親分の胸三寸だ。
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久しぶり、ことし初の日本精神史は「第五章 仏教の受容ー霊(たま)信仰と仏像崇拝」。

百済の聖明王から欽明天皇に仏像と仏具・仏典が送られてきたのは538年(「元興寺縁起」、俺はゴミやと罰当たりな覚え方をした)とも552年ともいう(「日本書紀」)。
自然神や祖先神を祀る旧来の信仰に対して、仏像を拝むというのは明らかに質が違う信仰の形だったから、崇仏派と排仏派の争いが起きる。

仏教が霊信仰とどのように違うのかと中身に踏み込んで検討する間もなく両派の対立が政権中枢で起こったのは、一見宗教的な対立に見せてそれまでの宮廷内の権力闘争の現れだ。
自民党内のTPP推進派とか改憲派と反対派の対立みたいなもので、安倍の独裁が強まると反対派は鳴りをひそめる。

とはいえ、仏教の伝来はその後の日本精神・文化史に物部vs蘇我の対立以上に重大な影響をもたらしたことはいうまでもない。
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古代人の神、それは善いものでも悪いものでも、特別の威力をもち人間に畏敬の念を起こさせるもの、それが山川草木、動物、人間のなにものであっても、神であった。
褻(け)の日(仕事の日)には単なる山であっても、晴れの日(祭りの日)、特に夜になると、人々はその山に霊力の存在を察知した。

霊気は濃淡さまざまに世界を満たし、季節とともに変化する自然のリズムとも通い合う。
そして人々の心身がそれを濃淡さまざまに感受する。
共同体に所属するみんなが、目に見えない精霊(たま)の存在を同じように感じ取るための、目に見える指標が「依代(よりしろ)」=シンボルとしての大石や玉、鏡、門松、、であった。
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柳田國男は「祖先の話」で、古来日本人は「一定の年月を過ぎると、祖霊は個性を棄てて融合して一体になる」と考えていた、と説く。
そして、その霊は、はるかな遠くにーたとえば、十万億土を隔てた極楽浄土にー行くのではなく、子々孫々の生きる郷土の近くにとどまっていると信じることが、「世の始めから、少なくとも今日まで、可なり根強くまだ持ち続けられて居る」(「先祖の話」・1946年刊行)と。

そういう霊信仰に生きる人々の前にもたらされた仏像、人間のすがたをした等身大の像を拝むことはなかった人々は驚いた。
霊が寄りついて像が霊化されるのではなく、もともと霊のこもった霊的な存在としての、美しさと崇高さを併せ持つ仏像。
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仏像は人間のすがたを取っているが、普通の人間ではない。
いささかのゆるみもないが、凝ったところもどこにもない静かなすがた。
像が作り出す空間の広がりの大きさと流れるような運動感が、見る者に安らぎをあたえ、仏教の教えなど知らなくても自然に頭をたれ手を合わす。
不変不動のすがたは、時を超えた永遠へと見る者の思いを誘う。
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そういう仏像は、いまや霊の依代たりえない。
流動し浮遊する霊との交感を核心とする霊信仰は後退せざるを得ない。
排仏派が反撃するが、権力闘争の結果崇仏派が勝利する。

仏舎利を中心とする飛鳥寺は高句麗の伽藍配置を倣うものだった。
その後、塔(仏舎利)中心から金堂(仏像)中心へと変化するのは、仏の像を拝むという信仰の形が日本人に根づいていった変化と呼応する。
仏像と、そのまわりの造作や建物の荘厳・崇高な美しさ、飛鳥美術・白鳳美術の傑作が今に遺る。
渡来した仏像の美しさや渡来人の技術の確かさが、すぐれた仏寺・仏像を生むもととなった。
と同時に、それを受けとめる古代日本の人びとのうちに、仏寺・仏像に崇高な美しさを見てとる感性と、外来の技術を習得するだけの能力がなかったら、世界的に見ても古代ギリシャの神像彫刻に劣らぬ美と精神性の統一表現を作りだすことはできなかった。
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しかし、芸術的な精神性の高さは、そのまま思想的・実践的な精神性の高さに通じるものではない。
仏典の理解、宗教的思索、仏道修行などの面では注目すべき活動は見当たらなかった。
いまだ「古事記」も「日本書紀」も「万葉集」もなく、言葉といえば中国渡来の書物しかない時代だ。
9世紀初頭の最澄と空海が待たれる。

思想・実践の面では仏教も善悪さまざまの神々に災いの駆除と幸いの招来を願う旧来の厳正主義的信仰の水準にとどまっていた。

講談社

Commented by sweetmitsuki at 2016-01-24 23:03
スクナヒコナ、ですよね。
神田明神にそのような神像があるのを見るのも初めてですけど、スクナヒコナのこういう造形を見ること自体初めてです。
スクナヒコナはオホクニヌシのツレで、オホクニヌシは大黒様、スクナヒコナは恵比須様だから、なんでしょうけど、いやはや、シュールに過ぎるのではないのでしょうか。
Commented by jarippe at 2016-01-25 09:15
やはりそう思われたんですね
私も えっ?国民じゃあないの?
って思っていたんです
これから隠ぺい言い訳が始まりますね
Commented by saheizi-inokori at 2016-01-25 10:44
> sweetmitsukiさん、目に見えない日本の霊とこうして面白い像が作られる神との関係はどうなんでしょうね。
南方熊楠あたりに教わりに行かなくちゃ。
Commented by saheizi-inokori at 2016-01-25 10:46
> jarippeさん、そのための時間が「来週中」ということなんでしょうか。
なんとも自信のなさそうなおっさんですね。
あんなんでちゃんとTPP強談判ができたのかな。
Commented by doremi730 at 2016-01-25 12:14
枕上手い!!
その通りですよ!
拍手喝采です♪
Commented by saheizi-inokori at 2016-01-25 12:59
> doremi730さん、ご賛同ありがとう!
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by saheizi-inokori | 2016-01-24 13:28 | 今週の1冊、又は2・3冊 | Trackback | Comments(6)

ホン、よしなしごと、食べ物、散歩・・


by saheizi-inokori
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