チョムスキーは間違っている? ダニエル・L・エヴェレット「ピダハン ≪言語本能≫を超える文化と世界観」
2016年 01月 13日
ときどき、自分の読んだ本を貸してくださる、その本がまた素晴らしい歩留まりで俺を喜ばせるMさんから借りた「ピタバン」。
読んで驚いた。
せんじつ紹介したチョムスキーの言語理論に対する異議の提起、反対学説なのだ。
まるで、一冊や二冊の啓蒙書を読んで世の中を分かった気になるな、もう少し腰を据えて勉強しろよ!と叱咤された気分。
とても面白い叱咤ではあったが。
アマゾンの奥地に今や400人くらいしか住んでいないというピダハン。
筆者はキリスト教伝道師として家族を連れて、30年にわたって彼らとともに暮らす。
そこで知ったピダハンの世界は驚きに満ちたものだった。
笑顔と笑いが絶えないピダハンは直接体験したことしか信じないし語ろうともしない。
色名、数、「すべての」「それぞれの」「あらゆる」などの数量詞、右左がない。
創世神話がない。
神はないけれどいろんな精霊は実際に見ることができ、夢も直接体験として意識される。
マーク・ローランズのオオカミを思わせる。
ピダハンの社会には「公的な」強制力、支配者はいない。
集団を律するのは「村八分」と「精霊」、「食料分配」などを通じてなされる。
乳飲み子は次の子が生まれるといくつであろうと有無を言わさず母乳から引き離される。
幼子が危険に近づいてもほったらかし。
生き抜く力のある者のみが生きていくのだ。
男性は母音三つ、子音八つ、女性は母音三つ、子音七つしか使わない。
声門を閉じた音も使う。
声調、アクセント、音節の重み、相対的な音の高さなどを駆使して言葉の意味を変える。
彼らのコミュニケーションには5つのツールがある。
口笛語り、ハミング語り、音楽語り、叫び語り、通常の子音と母音を使った語り。
チョムスキーの理論では「魚を獲った男が家にいる」のような関係節、「文のある構成要素を同種の構成要素に入れ込む力=リカージョン(再帰))」こそが人間の言語に無限の創造性を与えている道具だという。
それがピダハンにはない。
「男が家にいる」「男は魚を獲った」のように二つの文にして語る。
能動態と受動態、平叙文と疑問文、命令文のような文の構成成分の「転位」はピダハン語ではまず起こらない。
筆者は、ピダハンの話法は彼らのものの考え方を揺るがせない事物に特化した、外部からわかりにくいもの、エソテリックになっているといい、そういう文化においては文法はさほど必要でないのかもしれない、というのだ。
チョムスキーのような研究室で演繹的に美しい理論を組み立てるのではなく、フィールドで全知性と体力・忍耐力を使う帰納的研究。
筆者は、言語を学ぶ・理解するためにはその文化を理解することが必須だという。
文化が言語に大きな影響を与えるとも。(このあたりは、現在日本の国語を軽んじて、道具としての英語学習を前面に押し出す語学学習のありかたに対する批判ともなり得よう)。
筆者はキリスト教を伝道することをあきらめる。
その必要性に疑問を持つようになる。
ピダハンは深遠なる真実を望まない。そのような考え方は彼らの価値観に入る余地がないのだ。ピダハンにとって真実とは、魚を獲ること、カヌーを漕ぐこと、子どもたちと笑い合うこと、兄弟を愛すること、マラリアで死ぬことだ。
ピタハンは、自分たちの生存にとって有用なものを選び取り、文化を築いてきた。
自分たちが知らないことは心配しないし、心配できるとも考えず、あるいは未知のことをすべて知り得るとも思わない。
他者の知識や回答を欲しがらない。
畏れ、気をもみながら宇宙を見上げ、自分たちは宇宙のすべてを理解できると信じることと、人生をあるがままに楽しみ、神や真実を探求する虚しさを理解していることと、どちらが理知を極めているか。
そして筆者は無神論者になるのだ。
俺はもう、遅いな。
俺は理知を極めはしないが、他者の知識を欲しがるし、心配してもしょうがないことを心配して生き続けるしかない。
他者の知識を欲しがるからこんな本が読めたのだ。
探検記のような面白さ、ユーモアに富み、難しい言語学のこともそうとう解りやすく書いてくれたので、チョムスキーについても前より理解が進んだ。
屋代通子 訳
みすず書房
読んで驚いた。
せんじつ紹介したチョムスキーの言語理論に対する異議の提起、反対学説なのだ。
まるで、一冊や二冊の啓蒙書を読んで世の中を分かった気になるな、もう少し腰を据えて勉強しろよ!と叱咤された気分。
とても面白い叱咤ではあったが。
筆者はキリスト教伝道師として家族を連れて、30年にわたって彼らとともに暮らす。
そこで知ったピダハンの世界は驚きに満ちたものだった。
笑顔と笑いが絶えないピダハンは直接体験したことしか信じないし語ろうともしない。
色名、数、「すべての」「それぞれの」「あらゆる」などの数量詞、右左がない。
創世神話がない。
神はないけれどいろんな精霊は実際に見ることができ、夢も直接体験として意識される。
マーク・ローランズのオオカミを思わせる。
集団を律するのは「村八分」と「精霊」、「食料分配」などを通じてなされる。
乳飲み子は次の子が生まれるといくつであろうと有無を言わさず母乳から引き離される。
幼子が危険に近づいてもほったらかし。
生き抜く力のある者のみが生きていくのだ。
男性は母音三つ、子音八つ、女性は母音三つ、子音七つしか使わない。
声門を閉じた音も使う。
声調、アクセント、音節の重み、相対的な音の高さなどを駆使して言葉の意味を変える。
彼らのコミュニケーションには5つのツールがある。
口笛語り、ハミング語り、音楽語り、叫び語り、通常の子音と母音を使った語り。
それがピダハンにはない。
「男が家にいる」「男は魚を獲った」のように二つの文にして語る。
能動態と受動態、平叙文と疑問文、命令文のような文の構成成分の「転位」はピダハン語ではまず起こらない。
筆者は、ピダハンの話法は彼らのものの考え方を揺るがせない事物に特化した、外部からわかりにくいもの、エソテリックになっているといい、そういう文化においては文法はさほど必要でないのかもしれない、というのだ。
筆者は、言語を学ぶ・理解するためにはその文化を理解することが必須だという。
文化が言語に大きな影響を与えるとも。(このあたりは、現在日本の国語を軽んじて、道具としての英語学習を前面に押し出す語学学習のありかたに対する批判ともなり得よう)。
筆者はキリスト教を伝道することをあきらめる。
その必要性に疑問を持つようになる。
ピダハンは深遠なる真実を望まない。そのような考え方は彼らの価値観に入る余地がないのだ。ピダハンにとって真実とは、魚を獲ること、カヌーを漕ぐこと、子どもたちと笑い合うこと、兄弟を愛すること、マラリアで死ぬことだ。
ピタハンは、自分たちの生存にとって有用なものを選び取り、文化を築いてきた。
自分たちが知らないことは心配しないし、心配できるとも考えず、あるいは未知のことをすべて知り得るとも思わない。
他者の知識や回答を欲しがらない。
畏れ、気をもみながら宇宙を見上げ、自分たちは宇宙のすべてを理解できると信じることと、人生をあるがままに楽しみ、神や真実を探求する虚しさを理解していることと、どちらが理知を極めているか。
俺はもう、遅いな。
俺は理知を極めはしないが、他者の知識を欲しがるし、心配してもしょうがないことを心配して生き続けるしかない。
他者の知識を欲しがるからこんな本が読めたのだ。
探検記のような面白さ、ユーモアに富み、難しい言語学のこともそうとう解りやすく書いてくれたので、チョムスキーについても前より理解が進んだ。
みすず書房
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jarippe at 2016-01-14 05:57
人間何が幸せなのかわからないですね
0
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j-garden-hirasato at 2016-01-14 06:57
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saheizi-inokori at 2016-01-14 10:12
> jarippeさん、自分が幸せかとか不幸かとか考えもしない、受難もあるがままに甘受する、ピタハンの生き方、それが煩悩多き現代人には幸福に見えるのかもしれないですね。
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saheizi-inokori at 2016-01-14 10:15
> j-garden-hirasatoさん、言葉が少ないから笑顔?そんなことはないのだろうか。
笑顔で生きているから過去のこと将来のことなど考えないのか、現在に生きるから幸不幸なんて考えもしないのか。
ほんとにいろいろ考えさせられます。
笑顔で生きているから過去のこと将来のことなど考えないのか、現在に生きるから幸不幸なんて考えもしないのか。
ほんとにいろいろ考えさせられます。
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ikuohasegawa at 2016-01-14 14:28
加藤周一で・・・合間に軽い物は読んでいますが、とどまっています。これも、読んだつもりにしそうです。
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saheizi-inokori at 2016-01-14 22:14
> ikuohasegawaさん、これも軽いですよ。
by saheizi-inokori
| 2016-01-13 13:21
| 今週の1冊、又は2・3冊
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