土偶が教えてくれる縄文人の精神生活 長谷川宏「日本精神史」その3
2015年 12月 02日
食器を洗うお湯の温かさが気持ちよく感じられるかどうかがバロメーター。
園芸高校の銀杏の黄葉がそろそろ盛りだ。
スマホを構えているとどこかの奥様が「きれいですねえ、でもお掃除が大変」と言って通り過ぎた。
向こうからニコニコ笑いながら歩いてきた奥様が「かわいいですねえ」、俺のことじゃない。
サンチ、途端にくるっと回ってしゃがみこんで、ウ○チ、奥様、目を丸くして「う○こ、、ですか」「はい」。
数百人規模の村落で定住生活を送る人びとの、自分たちの共同の力についての意識が、自然と張り合うような高さと力強さをもつ堂々たる形を求めて作り出したのが六本柱巨大建造物であり、暮らしに役立つ実用的な土器の製作に造形の喜びを見出した工人の美意識が、形のあってなきがごとき火の形象化に邁進し、形態と文様の統一を見事に達成したのが火炎土器であり、
たいして、日常のさまざまな場面でさまざまな強度をもってあらわれる宗教意識-願いや祈りーが、個々ばらばらなままにおのれの思いを投入できる対象として生み出したのが種々雑多な土偶である。
そういう土偶のほとんどは、写実の正確さや全体の統一と均衡を置き去りにして部分への関心が肥大化したところに、奇怪とも玄妙ともいえるデフォルメが生じている。
妊娠・出産・育児・豊作・豊漁・病気の平癒、、さまざまな思いが自在に気ままにこめられているのだ。
逆に言えば厖大な数の、多種多様なデフォルメのありようをながめることで、縄文人の土偶に託した大小・深浅さまざまの思いや願いや祈りを想定しないではいられない。
共同性へと統合されていく人びとの意志および意識とは異質な、恣意的で雑多な精神生活が映し出されている。
これらの手軽で雑多な土偶とは、別格ともいえる逸品がある。
それが、俺も尖石縄文考古館で見てきた「縄文のビーナス」だ。
デフォルメの手法を自在に活用しながらも、誇張された部分がばらばらに自己を主張するのではなく、たがいにつながり合ってまとまりのある全体を構成している。
とりわけ感銘深いのが、背中の湾曲面だ。
腰のあたりまでわずかに反り気味に降りてくる背中の面がそこでいったん力を溜め、外に向かって湾曲しながら大きく張り出していく。そして、その湾曲面に接して、その下に臀部のふっくらと丸い曲面が続く。大胆にして滑らかなその曲面には、手で触って確かめたくなるような運動感と量感がある。縄文人たちは実際に手で触って、そのふくよかさを慈しんだにちがいない。湾曲面からふっくらした曲面へのこの流れは正面からはまったく見えないが、見えない陰の部分にこんなにも秀逸な造形がなされていることに、かえって製作者の美意識の高揚をうかがうことができる。
製作技術の向上とともに形の美しさを求める意識が広く深く展開していった縄文土器の歴史とは異なって、土偶の歴史は、気ままで拡散的な宗教意識が集中力と持続力をもって対象の美しさを追求する美意識と容易に結びつくことのない歴史だった。
そして、それもまた縄文時代の精神史の一面だった。
パソコンを変えたら、引用文の斜体表示ができなくなった。
そのため、どこが引用文なのか分かりにくい記事になっているが、ほとんどは引用だと思ってください。
メモのつもりで書いてます。
それにしても本を読んだり文章を書く力が衰えた、急激に。
やる気も手もドンドンとろくなって来て、
悲しくなる日々を過ごしとります。;;
子供の頃から 妙に土偶に引かれるのです
まさに ビーナス !美しいですね
ギリシャ彫刻のビーナスと 競って 全くひけをとらない。。てか
私は 縄文のビーナスが 好みです
偶然、こういうものが生まれたとは考えにくいです。
でも結構いい値段だしなあ。