大当たり!志ん輔「文七元結」 第391回「国立名人会」
2015年 11月 30日
ことしは、さしたる紅葉も見ないままに散ってしまった近所の桜並木、公園の方は遅々たる歩みだ。
ま、ゆっくり楽しもう。
駅までの1キロほどの道は、ず~っと公園に向かう人でいっぱい、人にぶつかりながら歩いた。
訊いてみたら、パラ駅伝、健常者とコンビで走るのだ、ことしはSMAPが来るから人出も多いらしい。
あれ、こんなの予約したっけ、ま、いいか、歌丸もしばらく見てないし、と思いきや。
会場に着いたら、それは12月の番組、今日は志ん輔が主任だった。
発券機で受け取ったチケットが入り口でみつからない。
「ゆっくりお探しください」、やさしくいう美人、珍しくもない事態なんだろうな。
下で落としたかとエレベーターに乗って、もう一度リュックを開けてみたら、ありました。
すぐに出すのになぜ、背中のリュックのジッパーを開けてしまいこむのか、これは断じておれの仕業ではない、背後霊のなせる業に決まってる。
さいきんとみに跳梁跋扈する背後霊なのだ。
身障者・俺と伴走する背後霊、もう少し助けになってくれよ。
この間と同じ、王子の居酒屋での生ホッピーをバカ飲みして3時間かけて帰宅したマクラもずっとうまくまとまった。
長兵衛がばくちですってんてんになって帰宅するとカミさんが、お久がいなくなったと半狂乱になっている。
どこかの男と夜明かししているのだろうとその場しのぎの気休めをいうと、「おまいさんに愛想を尽かして出てったんだよオッ」と一喝される。
「おれにイ?なんで、、」と言いながら、ハッとする、身に覚えがあるから反発も弱弱しい。
お久に何かあったらこの家にいないから、とカミさん、とっさに「何言ってやんでエ、てめえがいなけりゃ、おれだっていねエや!」、大事なセリフだ。
情理を尽くして自殺なんてやめろという長兵衛に対して、文七が「店の旦那が身寄りのない自分を親代わりになって育ててくれて、意地悪をする連中に対して、かばってかばってかばってくれた。その旦那に対して申し訳が立たない」というくだり、俺がこんな大金を持ってる訳をしゃべらないとわからないだろうから、とお久と佐野槌の女将の情けをしんみりと話す長兵衛。
50両を叩き付けて長兵衛が行ってしまったあと、包みがほんとに50両だったとわかった時に「親方あ~~!」と絶叫する文七、後はしじまのなかを黒々と大川が流れている。
場面変わって近江屋。
掏られたと思った金は置き忘れ、すでに届いている。
ゆくたてを問いただす旦那と文七のやり取りもくどくなく結構な塩梅。
文七に店の名前を思い出させる様子も、せかさず、思い出させようとする、うまいもんだ。
「さの、、」と思い出しかけて、堅物のはずの番頭が思わず「佐野槌か、京町二丁目の結構な見世です!」、笑いとともに拍手が起きた。
俺は確かにお前を助けたよな、うなづいてちゃわからねえ声に出して(風呂敷の腰巻姿で屏風の陰に隠れているカミさんに聞こえるように)ハイと言え。
なんども声に出して確認を迫るのは、何よりも俺は嘘オついちゃいねえ、ってことをカミさんに言いたいのだ。
50両は掏られたのではなく、忘れたのだと聞くや、「わ~す~れ~たあ~あ?!」、「冗談じゃねえぜ、おい、ええ?俺が通りかからなかったら、ドカンボコンてんで死んじまうんだろ。おめえ、犬死じゃねえか」。
金が出たことよりも文七が死に損なったことを(喜び)怒る。
親戚付き合いをしてくれとか文七を養子にしてくれというくだりは潔くカットして、三人が抱き合って喜ぶ姿のあとに、文七とお久が元結やをやって繁盛したとだけ言って下げる。
すかさず絶妙のタイミングで、「大当たり!」。
噺家の見事なさげを客が見事に受け止めた。
歌実「子ほめ」
我太楼「幇間腹」
ぱあぱあ、しゃべる幇間は、この人のニンかな。
文左衛門「転宅」
こっちも、ふてぶてしいようで気の弱い・人の良さそうな泥棒はニンだ。
留守宅に上がり込んで残ったご馳走を食う、お菊が帰ってきて、驚きながらも残りをかっ込むのがおかしい。
お菊と所帯が持てるってんで舞い上がって、新婚、娘の誕生、三人の暮らしを妄想する。
娘が学校に入ったら、「こうしちゃいられない、朝は、ちゃんと出かけて夕方には帰ってくる、日本一の大泥棒になるんだ」。
夢のある泥棒。
歌之介「お父さんのハンデイ」
前半はいつもの通りギャグの連発で爆笑させたが、本題のゴルフ狂のお父さんの噺になるとつまらなかった。
翁家社中・曲芸
撥と毬がくっつく曲芸、いつみてもうまいなあ。
そんなつまらないことぉ考えちゃ志ん輔の名演に申し訳ないかな。
秋田大仙市、夏に逝った友の近所の「福乃友」の「冬樹」を常温でやる。
冬樹・・・・・ラベルも素敵ですね。
角館に行った時、土産物屋の前でいつも日本酒の試飲コーナーがあって、そこでこのお酒を知りました。
すごく美味しかったのを覚えています。
亡きご友人を偲びながら、思い出尽きないでしょう。
でもみんなで必死になって自分たちの納得できる酒を作っているようです。
少し甘みがあって炬燵に当たりながら語り合う感じがします。
まだ、あいつが生きていて明日にも遊びに来てくれるような気がします。
その筋を皆が知っているということです。
そこに演者の個を入れるのが難しい・・・
結局、哀れが漂うか否かが決め手でしょうか。
今日から師走。
慌ただしさの中の中に哀れが漂う落語にうってつけの月です。
滑稽と哀れをどう塩梅するか、5つの場面転換を息切れせずに演じ切るのは力量が必要だと思います。
噺に緩急をつけないとだれてしまいます。
立川談春の、冒頭の佐野槌の女将を情感たっぷりにやりすぎる演出を聴いて疲れた記憶もあります。
なお、志ん輔の落語研究会の『富久』は、彼のブログによると、放送(と言っても来年ですが)されることが決まったようで、喜んでいましたね。プロデューサーには評価されたようです。見方、聴き方も、人それぞれということでしょうか。
読んでるだけでその気になれます。
ちょっと前ににぎわい座でもやってたのですね。