日本にも潜んでいそうな 映画「顔のないヒトラーたち」
2015年 10月 05日
岸信介の孫が憲法を踏みにじる。
どうしたってナチスのことを勉強しなおさなければと思う。
麻生も「あの手口に学べ」といったし。
それで読んだ、池田浩士の「ヴァイマル憲法とヒトラー」。
そこに戦後のドイツにおいて、「過去に起こっていたことを知らないことにする」動きがあって、それにはあの「過去を前にして目を閉ざすものは、結局は現在に対して盲目となるのです」という発言で知られるヴァイゼッカー大統領(1985年当時)も大きな責任があることが指摘されていた。
美辞麗句を言いながら、じつはSS長官・ヒムラーの個人的な参謀と目され、外務次官としてフランスのユダヤ人をアウシュヴィッツに移送する文書に署名し、ユダヤ人との混血児7万人に断種手術をすることを黙認した罪でニュルンベルグ裁判にかけられた、父親エルンスト・フライヘル・フォン・ヴアイゼッカーの補助弁護人として、父親はアウシュヴィッツがああいうところだとは知らなかったとして無罪を主張したのだ。
元大統領は、後年まで父に対する禁固7年の有罪判決を「歴史的にも道義的にも不当だ」と述べていた。
権力者たちの、そういう戦後の発言がドイツ社会、なかんずく権力階層にナチスの生き残りを許し、そういう風土が新しいファシズム渇望の動きを生み出している、と池田は言い、若い世代が作った、過去のナチスと向き合い、責任を取らないままの戦後社会に抗議する映画を紹介している。
タイミングよく上映された映画「顔のないヒトラーたち」、さっそく見に行った。
満員、俺は最前列の左側の席に座った。
そこからだと映像が歪んで見える。
人びとは左肩が不自然に下がり、顔の左が引きつれたように縮んでみえる。
それが、この映画に妙に合うのだ。
ナチスとして(命令に従ったとばかりはいえない)殺人や虐待に手を染めながら、戦後は何食わぬ顔で善良な市民として生きていた男が妥協を許さない検事とそれを支える仲間(検事総長が凄みがある)によって証拠を突きつけられていくときの顔、それが醜く歪んだ顔なのだ。
(自由が丘を歩いていたらカツン!空から降ってきたクルミ、烏が落としたのか、危うく頭に)
1958年時点のフランクフルトで、アウシュヴィッツを知らない、あれはプロパガンダだ、アウシュビッツは単なる収容所だ、などという人が圧倒的だというのに驚いた。
当時高校に入ったばかりの日本人・俺でさえアウシュヴィッツの悲劇は知っていた、、かな、自信がない。
霜山徳爾訳『夜と霧』が初めて出版されたのは、1956年夏のことで、この本のことを知ったのは大学の生協で見たから。
やっと池田香代子訳の本書を読んだのは2008年、あまりドイツ人をバカにできない。
ニュルンベルグ裁判ではなく、ドイツ人が自らドイツ兵たちの犯罪を糾弾する。
映画でもなんどか「敗戦後、自国の兵隊を裁くなんて考えられない」という非難が浴びせられる。
若者たちが父に向かって「パパは何をやったの?!」と問い詰める、それでいいのかという上司に対して、「それが狙いだ。沈黙と嘘の社会は許されない」と答える若き検事、圧巻だ。
「元ナチスの罪を問うのではなく、被害者たちの記憶を消さないこと(が訴追の目的)」と自信を失くした検事を励ます検事総長の言葉も重い。
ここで裁かれるのは戦争犯罪の時効が過ぎていたこともあって、アウシュヴィッツにおける殺人行為だ。 日本はどうだったのか、と考える。
捕虜虐殺、民間人虐殺・レイプなどを犯していながら、東京裁判でも訴追されることなく普通の市民として生きてきた人がもしかして近くにいるのかもしれない。
明らかに戦争推進の中心にいた人が戦後も権力者としてやりたいことをやった日本。
映画で描かれるアウシュヴィッツ裁判は1965年のこと、元収容所幹部のムルカなど22名が被告となり、19か国から集められた400人近い証人たちがおぞましい殺人行為を生々しく証言、6人に終身刑、3人に無罪、11人に最長14年の懲役刑が言い渡された。
22人のうち、誰ひとり改悛の言葉を述べずお互いに罪をかぶせあったという。
エンドロールで、この裁判によってドイツはナチスの徹底排除へと変わった、という。
たしかに奇跡ともいうべき”快挙”であり、ドイツ社会に与えた衝撃は大きかっただろう。
日本人にはまねができない。
しかし、上に書いたヴァイゼッカーの演説は、この20年後なのだ。
この時、「ナチスの徹底排除」が完遂されているとはいえないようだ。
さて、現在は?
VWの不正は組織ぐるみという疑いが強い(さもありなん)。
これも経済戦争における「上の命令には逆らえない」症候だろう。
そんな病が流行るのは他国のことではない。
どうしたってナチスのことを勉強しなおさなければと思う。
麻生も「あの手口に学べ」といったし。
それで読んだ、池田浩士の「ヴァイマル憲法とヒトラー」。
そこに戦後のドイツにおいて、「過去に起こっていたことを知らないことにする」動きがあって、それにはあの「過去を前にして目を閉ざすものは、結局は現在に対して盲目となるのです」という発言で知られるヴァイゼッカー大統領(1985年当時)も大きな責任があることが指摘されていた。
美辞麗句を言いながら、じつはSS長官・ヒムラーの個人的な参謀と目され、外務次官としてフランスのユダヤ人をアウシュヴィッツに移送する文書に署名し、ユダヤ人との混血児7万人に断種手術をすることを黙認した罪でニュルンベルグ裁判にかけられた、父親エルンスト・フライヘル・フォン・ヴアイゼッカーの補助弁護人として、父親はアウシュヴィッツがああいうところだとは知らなかったとして無罪を主張したのだ。
権力者たちの、そういう戦後の発言がドイツ社会、なかんずく権力階層にナチスの生き残りを許し、そういう風土が新しいファシズム渇望の動きを生み出している、と池田は言い、若い世代が作った、過去のナチスと向き合い、責任を取らないままの戦後社会に抗議する映画を紹介している。
タイミングよく上映された映画「顔のないヒトラーたち」、さっそく見に行った。
満員、俺は最前列の左側の席に座った。
そこからだと映像が歪んで見える。
人びとは左肩が不自然に下がり、顔の左が引きつれたように縮んでみえる。
それが、この映画に妙に合うのだ。
ナチスとして(命令に従ったとばかりはいえない)殺人や虐待に手を染めながら、戦後は何食わぬ顔で善良な市民として生きていた男が妥協を許さない検事とそれを支える仲間(検事総長が凄みがある)によって証拠を突きつけられていくときの顔、それが醜く歪んだ顔なのだ。
1958年時点のフランクフルトで、アウシュヴィッツを知らない、あれはプロパガンダだ、アウシュビッツは単なる収容所だ、などという人が圧倒的だというのに驚いた。
当時高校に入ったばかりの日本人・俺でさえアウシュヴィッツの悲劇は知っていた、、かな、自信がない。
霜山徳爾訳『夜と霧』が初めて出版されたのは、1956年夏のことで、この本のことを知ったのは大学の生協で見たから。
やっと池田香代子訳の本書を読んだのは2008年、あまりドイツ人をバカにできない。
ニュルンベルグ裁判ではなく、ドイツ人が自らドイツ兵たちの犯罪を糾弾する。
映画でもなんどか「敗戦後、自国の兵隊を裁くなんて考えられない」という非難が浴びせられる。
若者たちが父に向かって「パパは何をやったの?!」と問い詰める、それでいいのかという上司に対して、「それが狙いだ。沈黙と嘘の社会は許されない」と答える若き検事、圧巻だ。
「元ナチスの罪を問うのではなく、被害者たちの記憶を消さないこと(が訴追の目的)」と自信を失くした検事を励ます検事総長の言葉も重い。
ここで裁かれるのは戦争犯罪の時効が過ぎていたこともあって、アウシュヴィッツにおける殺人行為だ。
捕虜虐殺、民間人虐殺・レイプなどを犯していながら、東京裁判でも訴追されることなく普通の市民として生きてきた人がもしかして近くにいるのかもしれない。
明らかに戦争推進の中心にいた人が戦後も権力者としてやりたいことをやった日本。
22人のうち、誰ひとり改悛の言葉を述べずお互いに罪をかぶせあったという。
エンドロールで、この裁判によってドイツはナチスの徹底排除へと変わった、という。
たしかに奇跡ともいうべき”快挙”であり、ドイツ社会に与えた衝撃は大きかっただろう。
日本人にはまねができない。
しかし、上に書いたヴァイゼッカーの演説は、この20年後なのだ。
この時、「ナチスの徹底排除」が完遂されているとはいえないようだ。
さて、現在は?
これも経済戦争における「上の命令には逆らえない」症候だろう。
そんな病が流行るのは他国のことではない。
Tracked
from みなと横浜みなみ区3丁目
at 2015-10-21 01:41
タイトル : 映画「顔のないヒトラーたち」を観ました。
[ CONTENTS ] ~クリックでジャンプ ・「侵略と虐殺」から目をそむける日本 ・元ナチス党員が跋扈する’50年代のドイツ ・立ち上がった「駆け出し」検事ヨハン ・検事総長フリッツ・バウアー ・収容所の存在すら知らなかった若者世代 ・大きく挫折する若き検事の「正義感」 ・動き出したドイツの戦犯追及 ・日本とドイツの″戦争総括”の違い ・ハンナ・アーレントとラウ...... more
[ CONTENTS ] ~クリックでジャンプ ・「侵略と虐殺」から目をそむける日本 ・元ナチス党員が跋扈する’50年代のドイツ ・立ち上がった「駆け出し」検事ヨハン ・検事総長フリッツ・バウアー ・収容所の存在すら知らなかった若者世代 ・大きく挫折する若き検事の「正義感」 ・動き出したドイツの戦犯追及 ・日本とドイツの″戦争総括”の違い ・ハンナ・アーレントとラウ...... more
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antsuan at 2015-10-05 16:20
旧約聖書では「異教徒異端者は虐殺し強姦せよ」と教えているそうです。翻って、聖徳太子は居なかったかも知れませんが、日本書紀では「和をもって貴しと為す」と書かれています。
日本文明を西洋文明と同一視するのは問題が在りそうですが、GHQのウォーギルドインフォメーションプログラムによって、戦後は洋魂洋才の宗教(思想)教育を受けていますから、ヒトラーと同類のスターリンやルーズベルトのような政治家が日本でも出てきそうですね。
日本文明を西洋文明と同一視するのは問題が在りそうですが、GHQのウォーギルドインフォメーションプログラムによって、戦後は洋魂洋才の宗教(思想)教育を受けていますから、ヒトラーと同類のスターリンやルーズベルトのような政治家が日本でも出てきそうですね。
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jarippe at 2015-10-05 17:04
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unburro at 2015-10-05 18:47
「夜と霧」は、池田香代子の新訳で、やっと腑に落ちました。
学生時代に旧訳を読んだ時は、どうもピンとこなかったのです。
言葉が難しかったのか、人間的に未熟だったからか、
その両方だったのだと、思います。
しかし、内容を理解したものの、
「ああ、私は生き残れないな…」とも、納得しました。
学生時代に旧訳を読んだ時は、どうもピンとこなかったのです。
言葉が難しかったのか、人間的に未熟だったからか、
その両方だったのだと、思います。
しかし、内容を理解したものの、
「ああ、私は生き残れないな…」とも、納得しました。
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saheizi-inokori at 2015-10-05 21:31
> antsuan、すでに、洋魂ともいえない、魂のない単純なエコノミックアニマルになっていますね。
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saheizi-inokori at 2015-10-05 21:32
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saheizi-inokori at 2015-10-05 21:33
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k_hankichi at 2015-10-05 23:32
本当に、他国のことではないです。他人事ではないです。
「ここからだと映像が歪んで見える。人びとは左肩が不自然に下がり、顔の左が引きつれたように縮んでみえる。それが、この映画に妙に合うのだ。」
まさに、そういう感じがします、saheiziさん。
いまもまだ、矛先を定められない日本の僕らの憤りがさらに増すのです。
「ここからだと映像が歪んで見える。人びとは左肩が不自然に下がり、顔の左が引きつれたように縮んでみえる。それが、この映画に妙に合うのだ。」
まさに、そういう感じがします、saheiziさん。
いまもまだ、矛先を定められない日本の僕らの憤りがさらに増すのです。
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j-garden-hirasato at 2015-10-06 07:02
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saheizi-inokori at 2015-10-06 13:47
> k_hankichiさん、グローバリズムの中で進行している日本の軍事化、ナチスよりたちが悪いかもしれないです。
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saheizi-inokori at 2015-10-06 13:49
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sheri-sheri at 2015-10-06 21:49
恐ろしいことですが、不条理は繰り返され悲劇は繰り返される。人間の性善説というのが信じられない昨今です。
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kanafr at 2015-10-07 06:18
「ナチスの手口を学べ」と麻生が言ったそうですが、あの人、確か外務大臣やりましたよね?この発言をこのヨーロッパに来て言ったなら、国際問題になるでしょう。こんなバカが外務大臣になる国、情けない。
A級戦犯=死刑だと思っていたのに、それを逃れたのが安倍のおじいさん岸信介ですよね。戦犯を逃れたのはアメリカに対し何らかの事をした筈。そんなゆがんだ考えは孫の代まで引き継がれて言っているんですね。凄い血筋だなあとつくづく感心しています。
A級戦犯=死刑だと思っていたのに、それを逃れたのが安倍のおじいさん岸信介ですよね。戦犯を逃れたのはアメリカに対し何らかの事をした筈。そんなゆがんだ考えは孫の代まで引き継がれて言っているんですね。凄い血筋だなあとつくづく感心しています。
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saheizi-inokori at 2015-10-07 08:33
> sheri-sheriさん、国家がある限り戦争は起きるというアナーキズムの考えもありますが、その国家を求めるのが人間なのかもしれないです。
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saheizi-inokori at 2015-10-07 08:41
by saheizi-inokori
| 2015-10-05 13:10
| 映画
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