理解していなければ無意味だろうか 須賀敦子「本に読まれて」
2015年 07月 23日
「ミラノ 霧の風景」だったかを読みかけたのはずいぶん前のこと。
静かな深い思いが満たされているような文章についていけなくて途中退場。
ゲスな言い方をすると、俺などとは世界が違う、だったか。
読んでいるとわが身のガサツさを思い知らされるようで辛かった。
ぱらぱらと読んでいたら、素直に頭に入ってくる。
うんうん、と頷いたり、ああ、そういう見方があるんだなあとか。
百閒が面白いのと違った面白さ。
むしろ百閒ジジイより身近にも感じる。
単に俺が前より落ち着いて本を読むようになったということ。
もうひとつは、いちいち自分との比較などしないで本の世界に浸れるようになったということ。
ではないか。
フランスの小説を私はこのごろになって、つぎつぎに読み返している。この夏、モウパッサンの『ベラミ』を読んだときも思ったのだけれど、若いときに読んだといっても、なにも理解していなければ、読んでないに等しいのではないか。いや、読んだと思っている分だけ、マイナスということだ。
「Ⅲ 読書日記」の中の『志賀直哉』『狭き門』「富士日記』という文章に出てきた言葉だ。
若い頃、こういう言葉を読めば、「そんなことを言われたって本人は理解していると思って読んでいるんだから、それを読んでないに等しいなんて言われたら、本が読めなくなる」と憤慨した。
今は、そうだな、と頷ける。
それは本にかぎらず、「生きていく」ということがすべて、「理解していると思っていても、じつは理解していない」ことの連続ではないか、と思い始めたからだ。
だから無意味なのではなく、もう少し理解を深めよう・正そうとして、再び本を読んだり・人と話したり・デモに参加したりするのだ。
「マイナス」かどうか、それだってわからないのだから。
中央公論社
しばらくは 戻らないようですが
彼女が連れて行く本の中に
須賀敦子、米原万里、荒川洋治
谷崎潤一郎、岡本太郎、水木しげる
桐島洋子、四方田犬彦がありました
今 勝手に本棚を覗いてるのですが👀
本との出会いのタイミングってあるような気がします。
>・・・読んでないに等しいのではないか。いや、読んだと思っている分だけ、マイナスということだ
ジョイスの『ユリシーズ』やプルーストの『失われた時を求めて』が私にはそうでしたし、もう読む気力がありません。
図書館で探してみます。
穴があったら入りたいような慙愧の念を感じることもしばしば、でもしょせん人生には多かれ少なかれ誤解・無理解はつきものと思いなすようにしました。
そうでないと辛すぎです。
達観とは違います。