日本古来の武士道とは?八紘一宇とは? 大西巨人「神聖喜劇 第二巻」
2015年 04月 15日
よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ日露戦争のときに明治天皇が詠んだ歌。
民草のうへやすかれといのる世に思はぬことのおこりけるかな
よもの海みなはらから、八紘一宇。
今ヤ不幸ニシテ米英両国ト釁端(きんたん・争いの糸口)ヲ開クニ至ル。洵(まこと)ニ已ムヲ得ザルモノアリ。豈(あに)朕ガ志ナラムヤ。第二次大戦開戦に当たっての昭和天皇の宣戦の大詔。
大前田軍曹が、「戦争なんてみな、殺して分捕る、だ」と言っているのを聞いた村上少尉が二人の天皇の歌や言葉を引いて大前田を強く諭す。
『殺して分捕る』を目的とするごとき戦争指導者、戦闘行動者が万一あったならば、彼らは、歴代上御一人の御意志にそむき日本古来の武士道に悖る(もとる)奸賊、破廉恥漢として、誅戮(ちゅうりく・罪を責めて殺す)されるに値するのだ。眉目涼しい白皙の陸士卒、村上は熊本五高文芸部に所属、その才能を認められていたが、針路を変えて軍人になった。
質実剛健、清廉潔白の生きている見本として将校たち一般に批判的否定的評価を下す村崎古兵も太鼓判をおす理想主義的情熱の持ち主。
学歴などにまったく価値をおかない東堂は、入隊検査でたまたま先輩が軍医をやっていて、「即日帰郷」にしてやるというのを断わりもした。
東堂は、村上が口にした「日本古来の武士道」なるものが、近世以降理論化され体系化された儒学的理念武士道とは違って、「文武の道よりいはば、是を名づけて、盗賊といふ」というようなものであり、すこぶる野性活力的・大前田演説的なものであることを、『保元物語』に記された源義朝が天皇の厳命により父・為義および兄弟9人を殺したことなどに徴して考えるのだ。
「日本古来の武士道」をいう村上少尉の客観的立脚体は、明治期以降の日本支配権力が上から新しく形作ってきた「絶対主義的皇国武士道」とでもいわれるべきであろうと。
「日本浪漫派」の領袖・保田与重郎についても対ロシア戦争および当代天皇の社会的階級的属性をまったく等閑に附した文章に対して「おどろきと憎悪を発して」いる。
前に読んだときのポストイットがそのままなのだが、今読むとなんでここ?という箇所が多い。
7年を閲して、俺にどういう変化があったのか。
よもや進歩とも思われず。
きゃつらは婪(むさぼ)るなきか若者の大いなる死を誰かつぐなふ東堂が、「痛切に心に留めた」という坪野哲久の歌。
一方で
年へなば国の力となりぬべき人をおほくも失ひにけりという明治天皇の歌には「張本人の白白しい空涙の類を読まざるを得なかった」とも。
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ikuohasegawa at 2015-04-20 07:07
やっぱり、読んでみようかな。
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saheizi-inokori at 2015-04-20 07:44
ikuohasegawa さん、ときどき繰りかえしに辟易することもありますが、、戦後日本文学の傑作だと思います。
by saheizi-inokori
| 2015-04-15 12:03
| 今週の1冊、又は2・3冊
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