丸谷先生さようなら 田中克彦「ことばと国家」

1981年刊、定価380円、神保町で買ったときはもっと安かった。
本を読む楽しみをじっくり味あわせてくれた。
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こんな薄っぺらな本が古稀を過ぎた俺の「ことば」観を根っこからひっくり返して、それが何とも痛快。

付箋をつけたうちから何か所を拾ってみると、
「口語文とはあくまでも文語文のくずれ、ないし変奏にほかならないのである。」(丸谷才一「日本語のために」)
文語文とて、かつては口語文だったのであるから、この一節はむしろ「文語文とは何百年も前に話されなくなって死んだことばであり、口語文とは、いまじっさいに使われて(話されて)いることばにもとづいて作られた書きことばである」と言いなおさねばならない。

母から同時に流れ出す乳とことばという、この二つの切りはなしがたい最初の世界との出会いの時点に眼をこらすことによって、ことばの本質に深くわけ入っていく手がかりが得られる。
ところが、ものごとを体系的に考える訓練のできているはずの知識人たちはしばしばここを素通りして、いきなりことばの議論に入っていく。すなわち、ことばについての評論は、最初から国家や政治の場に置かれてしまっているのである。

民族の言語を、それとは知らずに執拗に維持し滅亡からまもっているのは、学問のあるさかしらな文筆の人ではなく、無学な女と子供なのであった。だから女こそは日本をシナ化から救い、日本のことばを今日まで伝えた恩人なのであったと言わねばならない。

イタリアにおいて、この日常のことば、すなわちラテン語からみれば女、子供の卑俗の土語を文字でしるしてそれをことばに仕立てあげ、それで文学を書こうと思いついた人がいた。その人の名はダンテである。

あることばへの愛着は、かならずしもフランスとか日本とか、朝鮮とかの国家への愛を伴う必要はないということだ。(略)
啄木が「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」とよんだ、そのなつかしいことばは国家のことばではなかった。国家の標準からはじきだされているだけに、そのなまりはいとおしく、なつかしさはいっそう深いものであったのであろう。そのことは、方言の話し手にとっては説明ぬきですぐにわかることである。
ら抜きことば、けっこう。
文法こそ自由な表現を妨げる「禁止の体系」だ。
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フランスの原発は非フランス語の話し手の住む辺境地帯に建設することによって反対運動をかわそうとしてきた、つまり、原発建設は、非フランス語を母語とする人たちへの差別を一挙にあらわにするきっかけを作ってしまった。

「純粋な言語」という概念が、まぎれもない虚構であることは、だれでもちょっと考えてみればすぐにわかることである。

ドーデの「最後の授業」は、フランス語の授業が禁じられたアメル先生がフランス語に対する愛を語り「フランスばんざい!」と板書して教室を去ったという話、それは「母国語を奪われそうになる人々の悲しみと、死んでもそれを失われまいと決意する、自分たちの言語への愛着を描いている」と評価されてきた。
しかし、この話の舞台であるアルザスはドイツ語の方言を話す土地である。
アメル先生は、ドジンのことばを美しいフランス語にとりかえるための人だった。
そしてアルザスの学校はいま、無数のアメル先生によって支配されている。
、、。
きりがないなあ。
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(老人夫妻が焼いて老人が買う。赤羽で)

知らなかったことを知る喜びと驚き。
まして「ことば」の本質という、いまさらいまさらの話に関わるのだから。
馬齢を重ねてきたことをユーモアまじりに教えてくれた。
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ゆうべは赤羽で病気になった友人の激励会。
少し早めに行って街を歩き銭湯にも入った。
韓国語、上方弁があちこちで耳に入った。

岩波新書
Commented by 旭のキューです。 at 2015-02-21 13:41 x
文語分と口語文、380円の本から付箋紙でびっしり、俺も勉強しなきゃ♪すこし遊びすぎています。反省
Commented by saheizi-inokori at 2015-02-21 13:44
旭のキューです。さん、380円が3800円でも安いくらいの本です。
Commented by otebox at 2015-02-21 16:50
そうだったのか。現職の時、「最後の授業」は国語の文学教材で何度か扱いましたがそんな観点は持ち合わせていませんでした。読者は主人公フランツに寄り添ってアメル先生には好意的に読めるような仕掛けの文章でしたから。
続編の「新しい先生」でアメル先生のあとの先生に叱られたガスパールが言うアルザスの方言「ロッツ ミ フォルトゲン ヘル クロッツ(ぼくを帰らして下さい、クロッツ先生。)」これはもうドイツ語やがな、なんで?と思ったことはありましたが。
知らずしらず操作されていくってこと・・・注意したい。

今はTVのお笑い(見たくもない)などで幅をきかしている関西弁ですが、上方アクセントではあっても私の言葉ではありません。わたしが子どもだったころに話していた私の田舎の言葉はあらかた失われています。学校教育とラジオ・テレビの普及で、田舎言葉丸出しで喋ることを「恰好悪い」と思ってましたから。京都のこの辺では、河内弁ほど乱暴じゃなくしっくり感情を絡めて表現できる語彙をたくさん持っていたように思うのです。言葉をなくすということはことばが表現していた文化もなくすということです。もう元には戻せないですが、せめて覚えている内は使い続けるようにしたいと思います。
Commented by sora at 2015-02-21 17:03 x
この本みつけたいです   
一連のことばの記事に、胸が熱くなりました
国家が言葉の定義をする これは正に思考に箍をですね
丸谷才一氏の本からは、言葉に水をもらう心地がします
Commented by saheizi-inokori at 2015-02-21 21:38
otebox さん、ドーデのこの短編の副題を「アルザスの一少年の物語」としているのも良くなくて、「小さなアルザス人」または「アルザス人の少年」と訳すべきだと、アルザス人の特有の立場を示すため登場人物にも特別の工夫を凝らしているそうです。
活力をなくしたことばは無くなる一方で新しい言葉が、最下層から作られてくる、それが体制にはむかうものでもあるというのが田中の云いたいことのようでもあります。
Commented by saheizi-inokori at 2015-02-21 21:44
sora さん、私も丸谷の本を楽しんだ口ですが、田中は丸谷の日本語観を嫌っています。
さかしらなインテリ・エリート、趣味の裁判官として君臨する作家として。
Commented by kanafr at 2015-02-23 11:33
>フランスの原発は非フランス語の話し手の住む辺境地帯に建設する事によって反対運動をかわしてきた
フランスは日本より多く原発があっちこっちに点在しています。ここが爆発したら、パリ迄やられるだろうと言われるパリ近郊のノジャンの原発や、ロワールの原発など、こういう一体全てが非フランス語の話し手が住む場所とは思えないんですけどね。
原発に必要なのは何よりも冷却用の水であり、河の割る所が条件であり、非フランス語を母国語とする人達の場所というこの田中氏の書き方には、??の私です。
Commented by saheizi-inokori at 2015-02-23 11:42
kanafr さん、そうなのですか。
彼はブルトン語、オック語、フラマン語、アルザス語、プロヴァンス語、バスク語などを中央集権的にフランス語に統合してきたフランスと連邦主義的なドイツとの違いを説いています。
「フランスの少数民族」「ヨーロッパ内植民地」ということをヨーロッパの人たちも注目していると書いてます。
Commented by poirier_AAA at 2015-02-23 18:05
わたしもKanafrさんと同じように違和感を感じました。

フランス語=王家のフランス語とすると、ロワール地方などはまぎれもなく王様のお膝元で「フランス語」発祥の地ともいえるわけですが、そのロワール河沿岸には原発がそびえています。一方、いま現在も道路標識にフランス語とバスク語が併記されているようなバスク地方(スペインとの国境付近)には原発はありません。なぜかというと大きな河がないから。

「最後の授業」にしても、フランス人ならこの地方の複雑な歴史事情はよくわかっているので、「フランス万歳」を日本人とは同じ感覚では読まないはずです。むしろ、そういう読み方をさせようとしてきた日本側の紹介の仕方に問題があるのでは?と思ってしまうのですが。。。。

中央が地方にいやなものを押し付ける構図が世界中ではびこっていることは、わたしもその通りだと思います。でも、なにもかもが日本国内と同じように動いているわけではないし(むしろ日本在り方は特殊な部類かと)、世界には日本人とは違う視点でモノを見る人もたくさんいます。その幅を一気に切り捨てられ、全員が同じ尺度でモノを見るように促されているような居心地の悪さを感じます。
Commented by saheizi-inokori at 2015-02-23 21:50
poirierさん、フランスの地理や原発のことがわかってないので、田中の本の1980年当時のことがわかりません。
「最後の授業」は私はフランス語を奪われる生徒の悲しみのように教わった記憶があり、それを田中は誤読だと批判しています。
ドイツとフランスの言語政策を比較して、ことばの生成発展が権力の意向によって変わる、にもかかわらず、庶民の生き生きとした言葉がエリートのラテン語や漢語、または丸谷才一語を淘汰していく可能性もあるという田中の言語観はおもしろいです。
たとえば岩手の小学校がズーズー弁で授業をしたら日本はもっと良い国になっただろう、と3・11後の私は思います。
原発というものが”きれいな”日本語の優等生から作り上げられたものだと思います。大したことのない大学というのを越えて悪の総本山として東大というものを憎むようになりましたのも3・11です。
Commented by saheizi-inokori at 2015-02-23 22:02
poirierさん、追記です。
>世界には日本人とは違う視点でモノを見る人もたくさんいます。

おっしゃる通り、世界、日本、いろんな視点でものを見る人がいてそれを知るのが楽しみで本を読んでいます。
田中も今までの私の言語観をひっくり返してくれました。
この年になってこんな本が読めたのは幸運でした。
チャンスがあれば一読されんことを!
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by saheizi-inokori | 2015-02-21 12:24 | 今週の1冊、又は2・3冊 | Trackback | Comments(11)

ホン、よしなしごと、食べ物、散歩・・


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