方言で考えないと危ないぞ 田中克彦「国家語をこえて」

二男夫妻が引っ越したので新しいマンションをたづね、最近飼いはじめた柴犬にもあってきた。
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二か月だというのにサンチより重い。
抱こうとすると喜ぶのは好いが暴れてセーターやら手やら噛みつく。
甘噛みといえども鋭い歯だから痛い。
可愛い顔をしているけれどしつけるのは大変だ。
「始めが肝心だ」なんて気楽にいって来たが二人は楽しい苦労が待っている。
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(水路の突き当りの橋が隅田川を挟んで築地市場)

勝どき、震災後一時人口が減ったかに見えたが、いままたニョキニョキとビル、とくに高層マンションが増え始めた。
虎の門から真っ直ぐ道路が出来るとますます殷賑を極めそうだ。
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勝どき駅前広場で月一度休日に開かれるというマルシェ、もう終わりかけで自然食品などの商品も少なくなっていた。
ビル風が屋台の隙間を吹きぬけて周囲は高層ビル、なんか別の東京が出現したようだった。
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田中克彦「差別語からはいる言語学入門」で知った言語学者の本を神保町散歩で見つけた。
何篇かの論文・エッセイのひとつ、「考えさせないことばの伝統」の冒頭に「定義ファシズム」という節があって、
「ことばはコミュニケーションの手段である」と、よく書かれもし、言われもする。(略)いまでは誰でもが考えなしに、気軽にくり返して言えるほど陳腐なせりふになっている。しかし、ほんとにこのように考えなしにでも言えることなのだろうか。さまざまな民族があって、それらがさまざまな歴史の状況に置かれたときにもなお、こんなことが普遍性をもって言えるのだろうかと考えなおしてみなければならないと思うことにときどき出くわす。二十世紀になってからでさえ、いくつもの民族が、強力な伝達力を持った大言語の利益を捨てて、わざわざ小さな方言を選んでそれを国語とする道を選んだ。(略)
(レーニンの)「言語は伝達の手段である」という言葉を見出したとき以来、このことばには、どこか問題があると私は思いつづけてきた。もしほんとにこのことばに普遍性があるなら、世界の言語は一つになるか、もっと数を減らしていたはずである。
問題というのは、この文句じたいにかぎらず、こうしたいわば当然と思われることがらを、ことばにして示さねばならない折り折りの動機のことである。「伝達」はたしかに言語の最大の機能であると言っていいが、状況によっては、その機能を犠牲にしてでも、なお報いられる他の機能に価値が置かれることがある。レーニンがこのことばを持ち出したとき、彼が欲した中央集権化されたより大きな国家に応ずるところの、より大きな言語を求める伏線がかくされていたのである。
現実そのものではなく、現実に対する解釈や判断を含まざるを得ない、あるいはそれを本性とする言語は、口から発せられたとき、共有の伝達の具というすがたをとりながら、じつは特定の事項に焦点をあてることによって、それ以外の事項を視野から遠ざけ、それについての思考を排除するはたらきをもつ。
長くなるのでここで一服、昨夜食ったピザの写真でも見ながら。
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「ことばは思考の道具である」と、よく教科書的にくり返されるこの表現にも、同じようなはたらきが現れている。ことばには、いまだ発見されざる思考のすじみちを切り開く力があるとともに、さきほど述べたところから明らかなようにある状況に特定の焦点づけをあてがうことにより、思考をあらかじめ定められた軌道の上を滑らせるよう誘い込むはたらきもそなえている。思考が、あらゆる論理的、感性的なものへの自由な探究であるとするならば、それを阻むことばのはたらきは、むしろ思考にとっての敵となる。したがって、「科学的真理」の名で客観的なよそおいをとって示される「定義」や「疑似定義」は、扇動家にとって欠かせない道具であり、その道具は、それに続く小扇動家をたえまなく作り出すであろう。
イミシンなことばではなかろうか。
世界各地のムスリムがロシア語、中国語、英語、フランス語を選ぼうとしないのは、そういう言葉ではコミュニケーションなんてできないと思うからではなかろうか。

俺たちは国家から強制された”美しい標準語”ーそこには国家が必要とする中央規範があるーで考えることをやめて、おのがじしの方言で考え・語ることが必要なのではないか。
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ちくま学芸文庫
ノーム・チョムスキーの安倍批判をどうぞ。


Commented by cocomerita at 2015-02-16 17:36
Ciao saheiziさん
言葉って他のいろいろなものと同じくたくさんの特性があり、こうしてひとつだけ取りあげても
そのもの自体は語れないと思うんですよね
言葉は、伝達手段であると共に文化であるわけで、だから文化や歴史をひとつになんてできないように
言葉もひとつになんてできないわけで、
、、その昔 エスペランザっていう世界共通の言葉を作ろうとした試みはあったようですが、案の定頓挫
私は言葉が私たちの手のようなものであると認識しています
その手で泣いている人の背中をさすってあげることもできれば、拳固を作って傷つけることもできる
そこで必要なのは 各々の人間性や文化度の高さや良識であり、それを使いこなす責任は私たちにあるわけで
言葉自体に問題があるわけではないと思います
近代は特に言葉の濫用っていうか、言葉を侮辱してるなあと感じる機会が多々あって残念に思います
だから、かつて日本人が重んじた言霊なんて 存在しようもない
恥ずかしがって逃げてくでしょう
アホで表面的な政治家たちがここ数年 鬼の首でもとったかのように意気揚々と発音する おためごかしの 優しそうに聞こえるだけの
嘘臭い言葉の数々と同じく
こうして言葉がどんどんちゃちになっていくのが残念です
Commented by saheizi-inokori at 2015-02-16 18:03
cocomerita さん、おっしゃる通り言葉は単なる伝達の道具であるだけではなく、民族のプライドやアイデンティティを示すものでもありますね。
それだけに権力は言葉を統制しようとする。
近代日本語も敬語表現がそうであるように国家統治のために学校で強制的に教えられ、その過程で方言は圧殺されていきました。「積極的平和主義」だとか「テロは許せない」という言葉もその背後にzれを使う人の意図を感じます。我々は方言=自分のことばで考えないとヤバイです。
Commented by j-garden-hirasato at 2015-02-17 06:52
マンションでは、
ストレスが溜まってしまいますかね。
我が家の愚犬は、
完全アウトドアでも、
未だに遊びで噛みます(笑)。
Commented by at 2015-02-17 07:00 x
実は日曜日に宅配のピザを食べました。
イタリアだけにピザ(キザ)なやつ、なんて苦しい洒落を言いながら・・・
これだけ色彩豊かで豊饒感のある食べ物は滅多にないですね。

Commented by saheizi-inokori at 2015-02-17 08:53
j-garden-hirasato さん、予防注射が終わったのでそろそろ散歩に出られそうです。
かなり頑張らなくちゃ。
Commented by saheizi-inokori at 2015-02-17 08:54
福さん、めったには喰わないけれど、うまい物ですね。お好み焼きに比べるとフアッショナブルです。
Commented by 豆ママ at 2015-02-17 12:58 x
柴ちゃんは笑顔が似合いますね!
Commented by saheizi-inokori at 2015-02-17 15:20
豆ママ さん、これは笑い顔なんでしようか^^。
なんしろ腕白、息子は腕なんか傷だらけ、噛みつき合って(マジに)いるようです。
Commented by みい at 2015-02-17 19:08 x
こんばんは

 わあ~芝ちゃん、かわいいですね^^。
わたし、柴犬飼いたかったんです。
気が強いからしつけは大変かも。
でも賢いワンちゃんんですよね!
Commented by saheizi-inokori at 2015-02-17 22:04
みい さん、私も柴と迷いました。
今はトイプーで良かったかと思います。
あれは若い人が飼うイヌかも。
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by saheizi-inokori | 2015-02-16 12:02 | 今週の1冊、又は2・3冊 | Trackback | Comments(10)

ホン、よしなしごと、食べ物、散歩・・


by saheizi-inokori
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