オロナミンCなんかチューチューやってないで 冨田均「聞書き 寄席末広亭」北村銀太郎述
2015年 02月 02日
イスラム国のこと、きょう歯根の残りを抜くことなども、あったのかも。
そんなわけで、今日は気楽なお噂で気分を変えよう。
この間、山梨に法事に行くときに車内で読んだ本だ。
志ん生とは同年の北村・九十歳翁の語るところは冨山の聞書きの良さも相まって、芸人たちの人となりや喜怒哀楽が彷彿する。
戦後の落語界の紆余曲折の裏幕も知ることができる。
一本筋金の通った江戸っ子、粋人北村の語る芸人たちの素顔も面白いが、その闊達、ベランメエの語り口が楽しい。
あの人も運の悪い日に死んだもんだよ。よりによってそんな日に死ぬこたあねえんだ。新聞見たってパンダの扱いの方がずっと大きいしね。テレビのニュースもパンダを長々とやったあと、あの人がちょっと出てくる。パンダが終わったから、今度あの人が映るなって思ってると、決まって映るんだもん。パンダが真打で、円生さんは前座並みの扱いだよこの辺りまでは今も寄席でときどき噺家が面白く語る。
大旦那の真骨頂はその次のセリフ、
一日ずらしゃあよかったんだ、前か後ろに。そのくらいの芸を見せたってよかったのにさ。あのくらいの芸をもってれば、そのくらい出来ただろうに。それとも、その程度の芸も出来ないほど弱っちゃってたのかなそして
惜しい噺家だよ。もう少し人間に太っ腹なところがあればね、申し分のない噺家なんだと続くのだ。
パンダがいつ死ぬかなんて知ってるはずもないのに、無茶を言う、円生があの世で苦笑してるだろう。
戦後すぐの芸人たちがヒロポンに夢中になって、楽屋一同、打たないもんはいないっていうくらい、一世を風靡したこと。
馬風(先代)なんてヒロポンの特攻隊、三亀松あんと二人でヒロポンの王様だった。
まったくあのころはヒロポンの黄金時代だったな。活気があったよ。今なんかオロナミンCかなんかチューチューやってんだもんね。固有名詞をあげる大旦那、芸人がかわいくてかわいくてたまらなかったのだろう。
あのヒロポン黄金時代は落語黄金時代でもあった。大御所、名人、上手、奇人、変人がいろいろと揃っていたからね。おもしろかったよ。
芸術協会には元老の五代目(左楽、北村の盟友ともいうべき大御所)を始め、会長の柳橋さん、それに副会長の小文治、ほかに大阪からきた先代の小南、そして今輔がいて、柳好、可楽、円なんてのもいた。円は後の三木助だ。
落語協会の方には会長の四代目小さん以下、文治、文楽、志ん生、円歌、円生、先代正蔵、それに馬楽。馬楽は今の正蔵さん。それから柳枝に右女助。右女助は後の小勝ね。あとは小円朝、馬風、それに談志ってところかな。馬風も談志も、むろん先代だよ。ただ、こっちの会は戦後すぐのころに志ん生と円生が欠けていたのが痛くてね、入りが極端に悪かった
小半治っていうと、やっぱり金と酒のことがついてまわるよ。仕様がねえんだ、そんな話ばっかりだったんだもの。なにしろ、この末広亭から外へ出て、そこらに坐ってる乞食の前に突っ立ってね、じっと空き缶の中を見つめて、「あるところにはあるもんだな」っていうんだからね、乞食だって逃げるよ。「馬鹿馬鹿しいんだよ」が色物芸の理窟なしの褒め言葉だったと冨田は書く。
まあ、最後の芸人と言っていいな。
あるとき、小半治の所属していた落語協会が団体の生命保険に入ったんだよ。死んだら二十万円もらえるってやつだったけど、小半治のやつ、すぐに死んじゃった。どこか、おかしいんだよ
馬鹿馬鹿しかった色物芸人のことも出てくるが、そろそろおあとがよろしいようで。
平凡社ライブラリー
初刊は昭和55年
落語いいですね。
私の友達の間でも少しずつ落語の輪が広がりつつあります。
梅が満開、私は責めて・・・・と梅の手ぬぐいを飾りました。
手ぬぐいの梅はsaheiziさんの写真と同じ位満開ですよ,あ~でもめじろは留まっていないな。
歯医者さん痛かったですか?
歯医者さんに行くって本当にいやですよね。
最高です!
馬鹿馬鹿しい、を楽しんで、「馬鹿馬鹿しいヤツだったなぁ、」と
思われて、消えてゆきたい。
「それでいいのだ!」と思います。
まあ、そんな粋なことは出来ないけれど…
ヤクザとの付き合い、言葉の自粛、表から消えたものが潜って悪質陰湿になったような気がします。
権ちゃんの笑い顔に通じますね。
かあいい。
戦後、私の両親が中野で喫茶店をやってまして、その当時に店に来るのはヤクザかミュージシャン(バンドボーイって呼んでましたけど)でしたから、皆揃ってヒロポンを打ってました。私も大人になったらヒロポンを打てるんだと思っていたほどで、当時の芸人は皆ポン中だったんでしょう。