選外でもいい 作ってみようか 辻 桃子「あなたの俳句はなぜ佳作どまりなのか」
2015年 01月 29日
せんじつ衝動買いした本。
「俳諧」の「俳」も「諧」も、喜び、笑い、戯れ、遊び、滑稽をさしている。つまりは、滑稽なことをさまざまに言いなして笑い戯れるのが、俳句の根本精神だから、私は、私の俳句の根本に「笑い」を据えたいのである。だが、ただ、うれしくて、おかしくて笑えばよいというものでもない。と、言われてみると、俳句を作らない・作れない俺がそれでも新聞の俳句欄を眺めたりして、ときどき興趣を覚えるワケが分かったような気がする。
この俳諧も諧謔もまた、もとは呪語でもあった。これは大いにうなずける感じではないか。俳諧、諧謔とはその底に、人間存在の不条理に対する、強烈な怨念をどす黒く渦巻かせている呪語なのだ。
そして、その怨念はおくびにも出さず、あたかも何事も無いかのように、今この瞬間を生きている事実をよろこび、不条理への怨念をさらりと笑い飛ばし、呪語をひそめつつこの世を笑いのめすエネルギーを爆発させるものであらねばならない。
おかしみ、その底にある人間存在の不条理への怨念に共感しているのだ。
亡母の俳句を毎月紹介しているが、俺には俳句の良し悪しが判別できない。
何となく意味とか句のもつ空気や言葉の面白さが分かってそれに共感することがたまにあるに過ぎない。
第一講「正直に」、第二講「愛情に溺れず、よく観察する」、、第七講「数多く読む」、、第二十三講「悲哀の中でも笑う精神」、、第二十九講「下手ということ」、、そして最後が第三十七講「持続力と才能」
俳句をやり続けるのは才能だけではできない。持続する力と情熱がなければ続かない。一生続けなければ何も出来ないのが俳句だ。俳句の本質論もあるが、技術的なアドバイスもなるほどと思わせる、ものも多い。
俳人として生きるなら威張ったり常識を言っていたりする閑はない。なりふりかまわず持っている力をふりしぼって俳句を作って作って作りまくらなくては。
なるほどと思わない、つまり分らないこともあるのだが。
何となく淋しさただよう秋近し→「季語の説明はしない」
収穫の冬瓜(とうが)で押さへ新聞紙→「押さへ、と言ってしまわずに、ただ、そこに、のせてある、というだけの方が、もっとさりげない。これを客観描写という。意味の無い句こそ妙」→とりたての冬瓜(とうがん)のせて新聞紙
燗酒の心にしみる妻の留守→「俳句とは、心を詠む、命を詠うもの。この大前提は言わないのが原則。心、命は略して、ここを具体的にする→燗酒の喉にしみいる妻の留守
とまあ、こんな調子。
辻桃子が、現俳壇で、たった一人、「写生と諧謔」を実行し得た俳人と評す波多野爽波の句が紹介されている。
籐椅子の人みな本を得てしづか
鳥の巣に鳥が入ってゆくところ
さまざまの人着き傘の雪落とす
好いなあ、句集を買って読もうかな、と思ったら一巻一万五千円だと。
著者は「決して高くはない。本気で命をかけて俳句をやってみたいと思う人、ちょっと俳句でも楽しんでみたいという人も、必ず得るところがあるだろう、わからないと思っても、とにかく三年待てばわかる」というのだが。
さいごに「徹底描写で写生を超える」という文章が著者の俳句への基本信条。
写生は力が無いと出来ない。生半可な軟弱な精神では物の存在力に負ける。一心不乱に稽古に稽古を積まなくてはならない。その上で「そこには物しか無い」と覚めている覚悟が大切だ。てふてふに獣の顔のありにけり 辻 桃子
存在の本質を見、それを作品に定着させる仕事は、常に攻撃的だ。この一句で世の中の常識だの良識だのという敵をかなぐり捨てる意識がなかったら、何も書いたことにならないから。
ちょっと俳句にしり込みしそうになるかもしれない。
でもこうも書いている。
たかが俳句を作るために、仲間を押しのけたり、恵まれない人を排除するくらいなら、俳句なんかやらない方がよい。俳句などなど作らなくてもみなが幸せに楽しく愉快に生きることの方がずっと大切だ。うまい俳句を作るからって他人に冷たい人など、何の価値があろう。俳句なんか下手だって他人に暖かい人の方がずっとずっと偉いのだ。ちょっと安心。
俳句を作るから友達でいる、のではなくて、俳句など無くても一生一緒に居たい人こそ友達なのだ。
新潮文庫
とても良い言葉です。俳句の限らずいろいろな事にも通じます。
波多野爽波氏の俳句、面白いです。どうしてこのように捉えて句が出来るのでしょう。
トドロキの起源の字が面白いです。
本の感想をお聞かせください。
俳句をつくろうという目で見ると、いろんなものがくっきり見えてくるのかな。絵を描こう、文章を書こう、もそうでしょうか。
たしかに、蝶々に獣の顔、ありますねえ。
私も、一生懸命お人形の着せ替え遊びに日々精進しております。
あ、いえいえ、もちろん太陽光発電所の建設も同じぐらい気合を入れてやっております。
いつもありがとう。
俳句、短歌、仕事、何でも言えることかもしれない。
ただ俳句の写生は門外漢から見ているとそんなに力がいるものか、と、言われてみてそうかもしれないと思うわけです。
説明をするな、とか「思い」とか「感慨」という言葉を使うなというのも散文にも通じるような気がしました。
むしろ俳句は年寄りが趣味でやる気楽なものだと思っている人の方が多いかもしれないですね。
でも「そこには物しか無い」と物と対峙する目を持つことにも強く憧れます。四の五の言っていないで、ともかくこの本を読んで始めてみる、続けてみる、が一番よさそうですね。
たしかに厳しいですが、チャレンジしてみたい気もします。
大根の葉にもおかしみがありますね。お~い、助けてくれ~と大根が云ったか、それとも青い空と雲を見て海までの道中を楽しんだか。
虚子は大根になりたかったのかな。
学校ではどう教えましたか^^。
たしか「自然の変化の一瞬を描写した」ということでした。
ユーモアは「三月の甘納豆のうふふふふ」なんていう坪内稔典の句がありますが、
そのあたりに強く感じます。
自然の一瞬にわが身の儚さを感じた、そこにユーモアがあるようです。