誰もがそんなふうに生きられるわけじゃないけれど 稲葉真弓「少し湿った場所」
2014年 12月 11日
それで翌日駒沢公園でさようならといったのだった。
そういえば、音楽遊覧飛行の中川安奈の収録分も終わったらしく、今は違う人がしゃべっている。
どういう仕合せによってか知ることができた人、その人がもうこの世にいなくなっているのを知るのは不思議な気持ちだ。
でも彼女たちが書いたものを残しているから、俺は生きている人の言葉のようにそれを読むことができる。
Ⅰ「猫と暮らして」は20年連れ添った愛猫のさいご、死、ペットロス状態、今は元気なサンチのことを想って胸が詰まる。
『かなしみに沈める聖母は涙にくれて』で始まるイエスの死を悼む母の嘆きを描いた『スターバト・マーテル』は、ペルゴージの曲↓が一番いいと教えてくれた。
百閒の『ノラや』を傑作とし
血肉と化した猫たちが、ついに百閒の死の間際までその体を離れることがなかったということが私の心を揺さぶるのだ。と、時空を超えた共感。
Ⅲ 「故郷のかおり」は懐かしい故郷の思い出の玉手箱だ。
昔の井戸の暗がりと光を思い出しながら、秋の雨の音を聞き、においを嗅いでいると、もう行方は定かではなくても、昔の水がいまもひっそりとどこかを流れているような気がして、ふいに心がざわめいてくる。ときおり、雨に運ばれてくるにおいもある。(「水のにおい」)こんな文章が俺を捉える。
「幸福な病」に一筆書きされた、子供の頃に風邪をひいて休んだ時の甘いひととき、「ミシンが笑う」にちらっと見えた「遠い夜の母の足の動き」、、俺にも既視感。
本屋から「少年少女世界文学全集」が毎月届くのを胸ときめかせて待っていたというのは、本屋をしていた祖父母から毎月「少年」が送られてくるのを、郵便やの自転車が家の前に止まらないかとワクワクしていた俺の姿と重なる。
太宰治像は自らの命を犠牲にした女性たちを語らずにはとらえられない。
内なる情熱に生きた柳原白蓮。
高橋和己の『わが解体』を語って
高橋和己が誠実に苦悩した社会と個人の関係は大きく変貌してしまったのだから。今私は、なにが正道で何が邪道なのか、ラインを引くことのできない茫洋とした社会の中で、ひたすらその曖昧さに身を委ねている。と書く。
マルグリット・デュラスのことも本書で初めて知った。
さっそく評伝を予約した。
ジャニス・ジョプリンのことを「誰もがそんな風に生きられるわけじゃないけど」と題して書いている。
ジャニスのように生きた鈴木いづみと阿部薫のことを書いたという稲葉の「エンドレス・ワルツ」も予約した。
こんなふうに死んだばかりの人から教わるというのも不思議な感じがする。
父を早くに失くして心細かっただろう母親との暮らし、二人で月夜に散歩するのは母親が年を取ってからも続いたようだ。
Ⅵ 「半島にて」
上↑に書いた同名の小説に出てくる志摩半島に関わるエッセイ。
足首だけが自分のものではないかのように冷えることを「からだがだんだん遠くなる」と書いている。
俺の右足、右手がときおりそうなる。
死の予感のなかで自然の移ろい・そこにある世と死のあわいを見つめることを楽しんでいたのだろうか。
こうして眺めてみると、なんとまあ、私の全人生が薄くコンパクトに整っていることか、と書き、
誰も知らない隙間があって、随分、私は豊かに楽しく遊んできた気がする。覗き見たり、覗かれたり実にスリリングな日々だった。と結んでいる。
エッセイ集の中には父がいて、母がいて、友人がいて、もちろんあなたもいて、これから出逢いそうな人もいる。
桜が揺れ、五月がひそひそと通り抜け、生者も死者も一緒にいる。こんな本を作って見たかった。ごったまぜの時間の中に、くっきりと何かが流れている。こんな本を。
くっきりと、何かが。
そう、読んでいる間ずっと、会ったことのない稲葉真弓がいつも話しかけていた。
幻戯書房
胸に迫ります。
冬来たりなば、ですね。
高橋和己。デュラス。ジャニスジョプリン。
若い頃、
共闘のイメージになる前の高橋和己は特に好きでした。
彼の小説は色っぽいと言うと皆変な顔をするのですが。。。笑.そんな風に好きでした。
ちょとそそられる名前ですね。
ありがとう。