人々は貧しくても美しかった 壺井栄「柿の木のある家」
2014年 11月 17日
というより、それを思いだして図書館から借りてきたのだ、もう一度読みたいと。
兄弟姉妹、親に祖父母、叔父さん叔母さん、貧しくてもしっかり結びついた家族。
子供たちの成長。
登場する子供たちが俺たち兄弟であり、母親がまさしく俺たちの母親なのだ。
節分には氏神様や恵比寿様、荒神様、明神様、いろんな神様に参って豆を撒き赤飯を一箸づつ備える。
子供が産まれて6日目には「六日ざり」、名前を決めてお食い初め、お膳には石を置く。
桃と柳を軒に飾ったひな祭り。
筆者の育った小豆島にあったのだろう、土地の風俗・慣習に何とも言えない懐かしさを感じる。
俺の育った長野のそれとは形は違うけれどそこに流れている人々の感情は同じなのだ。
俺は11歳のときに童話を書いて、それを母がガリを切ってくれて文集を作ったことがある。
貧しい兄弟が母が働いている間、喧嘩をして夜に仲直りする、そんな筋書の童話は今思いだしても、壺井栄の「柿の木のある家」や「母のない子と子のない母と」の影響を受けていたと思う。
テーマもさることながら言葉遣いもふだん自分たちのつかわない言葉を気取って書いたり。
(ふだん働いている母が仕事の休みで)井戸ばたにしゃがんでいるおかあさんのせなかが見えるだけで、みんなはもうなんだか日なたぼっこでもしているようなきもちで、朝から上きげんです。(「赤いずきん」)なんて俺のことみたいだ。
おじさんが働きに行って帰るのを外で二人が待つていると、おじさんの家の電燈がともる。
「ああっ。」壺井栄の両親は10人の子持ち、栄は幼くして郵便局に働きに出た(「ヤナギの糸」)ほどで暮しは楽ではなかったが、ふたりのみなしごを引き取って育てていたそうだ。
「ああっ。」
ふりかえると、おじさんの家の中の電燈も明るく輝いています。たった一つしかないへやのまん中に、その電燈はともっていました。ふたりは、めずらしいものをみつけたように、ぞうりをぬいで、電燈の下に行きました。
明るい電燈、まぶしい電燈、ふたりの心の中に、去年死んだおかあさんのことがふっとうかんできました。でも七つと五つの子どもは、それを思いだしても、話し合うことばをわすれていました。ただうれしくて、へやの中をぐるぐる見まわしては、また電燈を見あげました。ひさしぶりに自分の家へかえってきたような気になったのかもしれません。(「あばらやの星」)
誰もいない部屋に電燈がともるとほっとすると同時に残業で帰ってこない母の不在が改めて強く意識されたことを思い出す。
貧しくても助け合って、人としての道を外さない、やさしくも凛とした生き方を示す童話が11編。
今の子にも読ませたい。
こさかしげる 画
あかね書房
けさ、久しぶりに小沢一郎の散歩と遭遇。
無法・非道な解散がそのまま通ってあいつらの馬鹿笑いになるのかと思うと何ともかんともやりきれない。
小沢よ、なんとか奴らにストップをかける知恵はないものか。
へへ、そんなんで私の読書は昔っからずっと児童文学一辺倒でございます。
さて、両親が揃っていても幸せでない子どもがいっぱいいる今の日本って、どうしたらいいのでしょう。選挙で何がくぁるのでしょうか?何か変わってほしいと思い投票しますが、いつも投票した候補が落選します。
方向を基本から変えなくちゃいけないのでしょうね。
琉球は独立すべきだし。
文を書く11歳の男の子とガリを切るお母さまを想像したり。
母が大切にしていた壺井栄さんのオレンジ布装丁の岩波全集で「裲襠」の題だけが長い間読めなかったと思い出したり。
ニュースで見た沖縄の方々の表情が
まぶしかったです
素早いなあ~ 感服します。
四季折々のつつましい暮らし、人(弱者)を思う気持ち、
沢山の大切な事が、ほんの数十年の間に消えてしまった事に愕然とします。
ブータンの人々の暮らしなどを、桃源郷の様に憧れているけれど、
我々の父母の時代では、当たり前のことだったのだよ、
と、今の人々に分かってもらう事は出来ないのでしょうか。
懐古趣味ではなく、未来図として描く事は…
出来ないのか…むむ…
衣食足りて忘れてしまったたいせつなこと。
おとながまず気づかなくては、子どもたちに伝えることなどできませんね。
沖縄はいよいよ独立しなきゃならないかもしれない。
アベノミクスの失敗というのは新自由主義にまで突き進んだ資本主義の限界だと思います。
地方のシティボーイだったから、♪カキノキサカノー~♪と歌って田舎のお爺ちゃん家を思い出していました。
トンチンカンついでに、ちあきなおみの『柿の木坂の家』滲みます。
「思いだすなあ~故郷のよ~」、明日はこれを歌いながら散歩しよう、歌詞を覚えていないかもしれない。