覚っているのかもしれないこの俺 橋爪大三郎&大澤真幸「ゆかいな仏教」
2014年 07月 29日
仏教の周りの本をときどき読む。
周り、というのは大衆向きの解説書みたいなのばっかりだから、経典に当たるとか本格的入門書を読むわけではない。
たいてい面白い。
なんだかわかったような気がする。
何が?
それはわからないのだが。
よく効く薬とか体操のことを書いてある本を読んだ時にも、あ、これで俺は大丈夫だと思うような、あれに似てるかも。

中国のこと(『おどろきの中国』)とかキリスト教のこと(『ふしぎなキリスト教』)など面白かったが今は忘れてしまった、やはり面白い対談をするコンビがこんどは仏教、しかも「ゆかいな」ときた。
ゆかい、だが分かったつもりで分からないのはいつもと同じ。

覚りについて。
覚りとはブラックホールの特異点にあるようなもので相対性理論が当てはまらない、言葉を支配する法則も成り立たないところにある。
つまり覚りとは言葉では表せないものなのだ。
キリスト教では神は言葉とともにあったし、イスラム教は教えの通り行動・信じれば救われる、どちらも明快なのと違う。

お釈迦様は覚った後、黙っていたが梵天がやってきて「せっかくだから、覚りを言葉で話してください」とせがんだ。
お釈迦様が説法を始めた所以だ。
だからさあ、俺が仏教の本を読んで分かったようなつもりになっても分からないというのはさ、仏教の本質に即しているってわけなのさ。
サンガ新書
周り、というのは大衆向きの解説書みたいなのばっかりだから、経典に当たるとか本格的入門書を読むわけではない。
たいてい面白い。
なんだかわかったような気がする。
何が?
それはわからないのだが。
よく効く薬とか体操のことを書いてある本を読んだ時にも、あ、これで俺は大丈夫だと思うような、あれに似てるかも。

ゆかい、だが分かったつもりで分からないのはいつもと同じ。

(橋爪)覚るというのは自分を外側からみることなので、覚った結果は、自分が最大の他者になるわけです。世界の中に自分とか人間とかいうくくりがあることが不自然であり、不当であるということを含むと思うから。つまるところ、私は私でなく、私は人間でなく、私は生命でもなくて、私は奇妙奇怪な宇宙のメカニズムそのものだ、ということが結論になるはずです。大澤はこれを受けて「覚りってあまり内在的魅力がないものだなあ。どうやら覚りとはなにかほかの目的をもっていて副産物として得られるのではないか」というような感想を述べている。
そうすると、これはほんとうに恐ろしい精神状態で、倫理も道徳も、殺生戒とか財産とか、人間は価値があるとか何とかいうものが、全部壊れてしまい、荒涼たる場所に出てしまう。
覚りとはブラックホールの特異点にあるようなもので相対性理論が当てはまらない、言葉を支配する法則も成り立たないところにある。
つまり覚りとは言葉では表せないものなのだ。
キリスト教では神は言葉とともにあったし、イスラム教は教えの通り行動・信じれば救われる、どちらも明快なのと違う。

お釈迦様が説法を始めた所以だ。
だからさあ、俺が仏教の本を読んで分かったようなつもりになっても分からないというのはさ、仏教の本質に即しているってわけなのさ。
サンガ新書
だからさあ、からの下りの文章が面白かったです。(*^^*)
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旭のキューです。さん、ありがとう。
覚り切れない隠居はコメントが嬉しいのじゃ。
覚り切れない隠居はコメントが嬉しいのじゃ。
「悟る」 などと、一般では云うように思いますが、
「覚る」 というのは、また違うのでしょうか・・・
「覚る」 と 「悟る」 で、「覚悟」 と云うのは、また、別の深いハナシなのでしょうね・・・
いや、こんなコトバにこだわっているトコロが、
サトリ とは最も遠い所に居る、というコトなのでしょうね。
「覚る」 というのは、また違うのでしょうか・・・
「覚る」 と 「悟る」 で、「覚悟」 と云うのは、また、別の深いハナシなのでしょうね・・・
いや、こんなコトバにこだわっているトコロが、
サトリ とは最も遠い所に居る、というコトなのでしょうね。
unburoさん、
私もパソコンも悟りが最初に出てきます。なぜか本書は覚りなんですね。明日にでもその違いを調べてみようかな。多分忘れてしまうのでしょうが。
私もパソコンも悟りが最初に出てきます。なぜか本書は覚りなんですね。明日にでもその違いを調べてみようかな。多分忘れてしまうのでしょうが。
いまどきの季節、相方が茶事にて重宝するのが、
1)槿(ムクゲ:韓国の国花=1日花)
2)桔梗(キキョウ)
3)百日紅(サルスベリ)
でしょうか。
先週末のお稽古の日、早春にピンクの小さな花弁を幹にいっぱいに着ける「ハナズオウ」の枝豆みたいな実のなる枝(一昨日か(?)のフクロウブログ画像)はどうかといったら、即座にNGだと・・・。
我が家では、 「雨後の竹の子」(クロチク)は格別、間もなく、茶事に重宝の「シュウカイドウ」が開花です由。
それにつけても、今日(丑の日)に限っては、絶滅危険度NO2の「ニホンウナギ」の蒲焼が食いたし(悔いたし:パソコン変換錯誤)・・・。
1)槿(ムクゲ:韓国の国花=1日花)
2)桔梗(キキョウ)
3)百日紅(サルスベリ)
でしょうか。
先週末のお稽古の日、早春にピンクの小さな花弁を幹にいっぱいに着ける「ハナズオウ」の枝豆みたいな実のなる枝(一昨日か(?)のフクロウブログ画像)はどうかといったら、即座にNGだと・・・。
我が家では、 「雨後の竹の子」(クロチク)は格別、間もなく、茶事に重宝の「シュウカイドウ」が開花です由。
それにつけても、今日(丑の日)に限っては、絶滅危険度NO2の「ニホンウナギ」の蒲焼が食いたし(悔いたし:パソコン変換錯誤)・・・。
Ciao saheizi さん
悟る。とさ
なんかとんでもないところに行ってしまいそうで、こういう人間くさいままで、あーでもない、こーでもないとやってた方が面白い気がします。
自我はね、、徐々に取っていきたいけれども、、、笑
悟る。とさ
なんかとんでもないところに行ってしまいそうで、こういう人間くさいままで、あーでもない、こーでもないとやってた方が面白い気がします。
自我はね、、徐々に取っていきたいけれども、、、笑
仏教で解脱することを「悟り」といういい、「覚り」とは、山奥に住む人の心を見透かす妖怪のことを指すのではないでしょうか。
「悟り」を開くため僧侶は山奥にこもって行に励み、「覚り」はその能力ゆえに人から嫌われ里にいられなくなり山にこもる。
「悟り」と「覚り」は違うのでしょうけど、やってることは同じですね。
魅力がないというのも肯けます。
「悟り」を開くため僧侶は山奥にこもって行に励み、「覚り」はその能力ゆえに人から嫌われ里にいられなくなり山にこもる。
「悟り」と「覚り」は違うのでしょうけど、やってることは同じですね。
魅力がないというのも肯けます。
茶事、いいですね。
そんなゆとりが欲しいものです。
そんなゆとりが欲しいものです。
cocomerita さん、なんせ空なんですから、イイも悪いもないのです。
一切を超えている。
一切を超えている。
sweetmitsuki さん、その違い、初めて聴きました。
なにか根拠があるのですか。
なにか根拠があるのですか。
hisako-baaba さん、あなたは既に覚りの境地にいるのかもしれないです。
上に書いたように覚りは求めるものではないようです。
上に書いたように覚りは求めるものではないようです。
仏教もですが、宗教はよく分かりません。
でも苦しい時の神頼みはよくやります。「神様、仏様!!」と。(^_^)
お盆が来るたびに、「日本語で読むお経(八木幹夫・訳)」という本の般若心経などの訳を読んでみるのですが、読んでいると解ったような気がするものの、やはりあまり身の内に入って来ません。「あらゆる存在が空なるもの」なんて、ね。
でも苦しい時の神頼みはよくやります。「神様、仏様!!」と。(^_^)
お盆が来るたびに、「日本語で読むお経(八木幹夫・訳)」という本の般若心経などの訳を読んでみるのですが、読んでいると解ったような気がするものの、やはりあまり身の内に入って来ません。「あらゆる存在が空なるもの」なんて、ね。
wawa38 さん、それなのに仏教が日本人の生活に根を下ろしているのは不思議ですね。
by saheizi-inokori
| 2014-07-29 09:53
| 今週の1冊、又は2・3冊
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Comments(14)