こむら返りが一瞬の悟りを運んできた 高橋源一郎「銀河鉄道の彼方に」(2)
2014年 06月 14日
朝方、ふくらはぎが猛烈なこむら返り、「足揉み」はしっかりやっているのになあ。
足の痛さを庇いながらもまだ眠いのは夜中に起きてテレビを見たりしたからだ。
サッカーではない、単に気分転換であちこち、じつにくだらない番組ばかりなので3時前にベッドに戻って「唯識」の本を一時間ほど読んでしらじら夜明け。
アーラヤ識、自分の命は自分の意思を超えたところから、すなわち無限の過去からつながっている。こんなのを読んでいいるうちに、
マナ識、「我癡=無明」(空=無我を知らないこと)、「我見」(私というものがあると思っている)、「我慢」(そういう私というものを価値があると思い誇りにする)、「我愛」(深層エゴイズム)の4つの煩悩があり、それが心の底で凡夫(ふつうの人間)をコントロールしている。
スヤスヤ、、。
そうしてウ~ムと手足を伸ばしたら、激痛!
足の痛さをだましだまし、もう一度目をつむると激痛の前に見ていた夢の続きらしい。
この痛みは悟りの核心だ、これを大事に大事にしていると悟りに近づく!
俺は今悟ろうとしている。
この瞬間こそ俺の再生のトキだ!
温かい気持ちが溢れる、、ああ、悟りだ。
と思ったら、サンチの吠え声、、ああ、悟りは儚く消えていった。
『男』(宇宙でいちばん孤独な男、どうやら宇宙の果てに行こうとしている)は、真の悲しみとは、ただなにかを失うことではなく、それが存在していた時に自分を浸していた豊かな感情が再現されることだと気づいた。その誰かを失うことは、苦痛であったが、耐えることができるような気がした。けれども、この、豊かな感情の記憶にだけは耐えることができないような気がした。なんとなくわかるなあ。
”豊かな感情”とは具体的な事実にまつわる、歓びとか幸せ、苦しみ、悲しみなどと名付けられるようなものではなく、それらすべての底に流れていたような”深い・豊かな”感情。
豊かであれば豊かなほど思いだすことは歓びであるとともに悲しみでもある(今はないのだから)。
がさつな俺でもときどきそんな感情の再現にとまどうことがある。
これも空、迷妄なのだろうか。
私も最近、多いのです。水分補給が大切らしいです。
あの、脚が攣っている間って、走馬灯のように色々な想念が駆け廻りますよね。
今まで誰にも話した事はないけれど・・・saheiziさんの悟り?の一歩手前の感覚!ちょっと分かります(笑)
それを悟りの境地になさるだなんて
saheijiさんならではですね
豊かな感情・・・・・難しいです
わかるようなわからないような
深い思いって辛いことが多いように思います・・・・・
だってそれって伝わりにくい 伝えられないですもの・・・・
一日たった今でも歩き始めは痛いです。
即効性があるのは湿布薬で、わが家には常に常備があります。
それと創価学会について述べたとき、法華経そのものが他の仏教とは異なるという旨のコメントをしましたが、宮沢賢治も法華経の信者でしたね。
あれは言い過ぎでした。
訂正します。済みません。
人や物自体を失くす悲しみより感情に満たされたたときに、その深い感情の喪失感が辛い、というのはよくわかります。
血流が悪いというからももみほぐしもしょっちゅうやってます。
そんな感情に似ているのかな?
残された者の深い悲しみに時々耐えられない時があります。
心静かに、どんな感情にも流されないことが悟りなのでしょうか?
時々思います・・・なんで心なんてあるのかと・・・。
漢方も一度試したような気がしますが。
まあ、日常生活にさしつかえるというほどでもないので警鐘としてうけとめています。
図書館で予約した本を借りて帰ろうとしたら、「話題の本」とかいうコーナーにあったのが本書。
厚いのでちょっと迷いましたが借りて良かったと思いました。