肉屋のオバサンは肥った笑顔が似合う、短編小説の読み方を教えられた 松家仁之編「美しい子ども」
2013年 11月 21日
義母の薬を頼むと1日分づつ日付を書いて分包してくれるような店、顔なじみだけれど俺の薬は病院の近くで出してもらっているから、言わないと処方通りの薬になってしまう。
半年ほど前に出来た店でこの間試してみたらウマかったのだ。
ドアのところから大きな声で呼ばわると肥えたオバサンが出てきて予約注文を聴いてくれる。
抱っこしたサンチに笑顔を振りまきながら。
肉屋には肥ったオバサンの笑顔が似合う。
土曜日にはあちゃんの誕生日祝いをやるので、俺がステーキを焼いてやろう。
大きいのを焼いて頃合いに切って出すんじゃなくてめいめいに焼いてやろう。
薄っぺらなのじゃなくて3センチ、いやそれは厚すぎるか、2センチ。
自分で切れるかな、来年は小学校だものな。
名古屋の4年間の後半は単身生活で、休日に帰宅するときに駅前のデパートによってお菓子などのお土産を買うこともあった。
バーゲンセールで子供用のアノラックとかなんだとか5割引きなどと書いてあるとついつい買ってしまう。
なんどかそういうことがあって子供に言われた。
「キモチは嬉しいけれど、着るものは自分の好みがあるから自分で選ぶよ」。
着たきり雀、ツギを当てた服を着て育った俺は服にはサイズだけ、デザインがあるなんて別世界のことだと思っていた。
そういえば亡妻にも高級な服を半額で買って帰ってサイズも合わない上に半額でもあまりの高さに怒って暫く口もきいてくれなかったこともあった。
「火山のふもとで」で唸らされた作家が新潮クレスト・ブックスのなかから選んだ12編。
「その名にちなんで」「停電の夜に」のジュンパ・ラヒリ、この間ノーベル文学賞をとったアリス・モンロー、「朗読者」「週末」などのベルンハルト・シュリンクなどの名前もある。
表題になった「美しい子ども」はディミトリ・フェルフルスト、凄まじい貧困と怠惰の大人に囲まれた子どもの話だ。
人生善き哉!
人間の数だけの人生があって、そのどんな瞬間もひとつとして同じものはない。
同じように見える瞬間も近寄って、遠ざかって、上から、下から、後から、、見方次第でいかようにも見える。
書き方次第でいかようにも書ける。
でもそこに一縷であっても真実がなければ、それは言葉のカスだ。
なんと豊饒なことか。
クラシックあり、ジャズがあり、静かな語りがあるかと思えば賑やかなおしゃべりもある。
そのどこにも俺の分身を発見したような気がする。
シュリンクの「リューゲン島のヨハン・セバスチャン・バッハ」は「夏の嘘」で読んだばかりなのに、初めて読むような感動があった。
その映画が終わったとき、彼は泣きそうになったという書き出し、ラストシーンで父と娘が”言葉を必要としない、信頼に満ちた雰囲気の中で”一緒に働きはじめるのを見たときの主人公の感動、冒頭の10行の重みが今頃分かった始末、いったい何を読んでいたのかと情けない。
もっとも、よくできた短編小説とはそういうものかもしれない。
ウマい酒をゆっくり味わって飲むように読まなければ、、。
喉元を過ぎたのちにもう一度反芻してみること。
ゆめ先を急いでがぶ飲みをしてはならない(一昨日のように)。
未熟な読み手であることを知らしめてくれた本だ。
みんな、いい顔。
新潮クレスト・ブックス
訳者の方が上手いということでもあるのかな。
「停電の夜に」の英語朗読CDを購入して、聞いてみたのですが、ついていけなかったのを、思い出しました。外資系に勤める英語ペラペラの友人は、美しい文章だと言っていましたが・・・トホホ。
私は図書館だから字が大きいのがありがたいのですが^^。
あれは理屈ではおかしいのですが第一印象では嫌な感じがしないのは私だけかな。
覚えていなきゃいかんということではないけれどちょっと惜しい気持ちがします、ケチなのか。