歌が生まれる時、歌に救われるとき 西行花伝(2)
2013年 11月 19日
こんなところもある。
歌の働きについて語ったなかで
ある農夫は刈り入れの鎌をふと止めて、腰を伸ばし、夕づく雲が金色に輝くのを見る。またある乙女は葛を碾(ひ)く手を休めて庭先の卯の花に見入る。それはごく単純な動作にすぎない。だが、秋実(弟子の名・この小説の語り手)よ、そのとき人間には、今までとまったく別種の出来事が起こったのである。それまで人はただ時間(とき)の経過(ながれ)にしたがって、事をつぎつぎと片付けたのに、ここで、この時間(とき)の経過(ながれ)は中断され、何の準備もなく手段もなく、いきなり好(よ)きものが手のなかに滑りこんできたのである。それは時間(とき)の経過(ながれ)を垂直(たて)に切断し、阻止することであった。効率至上主義、競争第一、数字万能の現代にもっとも欠けているのは、この精神ではなかろうか。
だが、まさにそのとき、人は、時間(とき)の経過(ながれ)の外に出て、永遠の歓喜(よろこび)、時間(とき)を超えた時間(とき)の姿に気づく。そして人々はその歓喜(よろこび)を歌に封じ込めることを知ったのだ。それが宮廷に拡がり、やがて現実にも実効(ちから)あることが知られるようになると、操り人形(くぐつ)にすぎぬ宮廷人たちが目を見開き、現在(いま)を超えて、生命の好さを心ゆくまで味わおうという、雅な目的に力を入れるようになり、そこにいきいきとした社会(まとまり)が生まれることになったのである
大学の卒論に西行を書いた亡妻は癌で入院するときに短歌を始めようと思い俺に入門書を買わせた。
けっきょく治療に追われて歌をつくる暇もなく逝ってしまったけれど。
祖母の歌、長野にいる俺が百日咳にかかったと聞いて作った歌
信濃路は秋たけけらし抱き寝しうまごのぬくみふと思はるるもう一首
いたづらに身は老ひぬれどいとせめて五欲のそとに生きんとぞ思ふ五欲のそとに、なんて仙人じゃないか。
十一月の夕焼惜しむ夕支度歳時記を見ると、銀杏黄葉(いちょうもみじ)のほかに、あるねえ、初紅葉 薄紅葉 照葉・照紅葉 黄落 葡萄紅葉 柿紅葉 雑木紅葉 漆紅葉 櫨紅葉 桜紅葉 白膠木(ぬるで)紅葉 冬紅葉、、紅葉オンパレードだ。
銀杏黄葉散る日の近き黄金色
「紅葉且つ散る」、、紅葉する木もあれば散る木もある。
一枚の紅葉且つ散る静かさよ虚子の句が載っていた。
時間(とき)の経過(ながれ)を遮断することなんかできない、むしろ流されているブログだけれど。
お母上が夕焼けと夕支度。銀杏黄葉に黄金色と重ねておられる。その美意識と潤達さは息子さまのブログに脈々と継がれているのですねと思いました。 (ちょっと生意気に聞こえたら すみません )
時の流れの外に出て知る。 永遠の歓喜を歌に封じ込める。。。
定期収監から解放され訪問しまして、どどん~と
こんな豊かな美しい記事に出会えました。 ありがとうございます
saheiziさんのブログ私の心の中に積み上がってきましたよ富士山の様にーーーー。
父方の祖母も俳句をしました。一句だけ、その季節になると思い出す句があって、その情景に佇んでいる祖母の表情まで鮮やかに浮かびます。
「西行花伝」、我が家には単行本が2冊あるのです。
この家にきたら、夫の本棚に1冊ありました。私の持ってきたものの中にも1冊。
いずれもいただいたものとわかり、しかもどちらも未読。
佐平次さんの記事を拝読して、そろそろ読んでみたくなりました。
苦しみがないのですから。
近くのヴァンセンヌの森に行くと、時々金色に輝いている木の葉が舞って
何時間でも見ていたい様な気分です(それには寒すぎ。。。、ますが)
西行花伝は歌の世界でありながら、現世にも永遠の境地にもなりうると
。西行の歌は今に至る迄愛でられるのですから。本当にそうですね。
心で詠った句だから、心に響くのでしょう。
「俺の歌はこのブログかな」っておっしゃるsaheiziさん、
そうです、そうです。saheiziさんの心が伝わってきますもの。
kanafr さんのブログも歌ですね。ひたひたと伝わってきます。
なるほど、こないだ芦ノ湖で味わった感動はこれだったのかも、です。歌は茨木のり子さんので。
日記に書いとかなきゃ(笑)
永遠に生きてるんだなあ。