拗ね者は嫌だね 石牟礼道子「苦界浄土 わが水俣病」
2013年 10月 22日
シリア難民の子供たちが学校にいけない、お金もないが受け入れ能力もない。
移民たちが人間以下の対応をされている、海の方が優しいという。
日本でも災害や殺人事件の報道がない日がない。
メデイアの人たちは深刻そうな顔(ときどき笑顔のままで)をしていろいろ伝えもっともらしい批判をする。
でも心の底では、ネタが増えたことをハシャイデいるように見える。
チャンスとばかりに自衛隊の奮闘ぶりを入念に伝える国営放送もある。
こんな風に感じるのは俺がへそ曲りだからだ。
あねさん、魚は天のくれらすもんでござす。天のくれらすもんを、ただで、わが要ると思うしことって、その日を暮らす。水俣病で自分では何もできなくなった9歳の子供を抱えて、死ぬに死なれない漁師が昔の幸せを語る。
これより上の栄華のどこにゆけばあろうかい。
寒うもなか、まだ灼け焦げるように暑うもなか夏のはじめの朝の、海の上でござすで、水俣の方も島原の方もまだモヤにつつまれて、そのモヤを七色に押しひろげて陽様(ひいさま)の昇らす、ああよんべはえらい働きをしたが、よかあ気色になってきた。
かかさまよい、こうしてみれば空ちゅうもんは、つくづく広かもんじゃある
語っているのは漁師であり石牟礼道子でもある。
水俣の海を汚したチッソが人々から奪ったものの本当の価値を教える文章だ。
単なる平穏な暮らしなどという次元ではない人間が古来守ってきた生き方、自然と一体化して生きることを空しくしてしまったのだ。
空虚な日々の気晴らしとして人の不幸の詳細を見たがり聴きたがり、、そこになにやら落ち度めいたものがあれば鬼の首をとったように非を鳴らし溜飲をさげる。
そして次の獲物・事件はなにかとテレビの前に座るのだ。
心配しなくてもいい、世に悲惨・不祥事・恥知らずのタネはつきないのだから。
へそ曲りの拗ね者、いやな隠居だね。
我と我が身のことを他人事みたいにいってる。
それで荷風ってか。
講談社文庫
東電社長は伊豆大島町長ほど叩かれませんでした。会長だって日本にさえいなかったのにね。
TVのはしゃぎぶりは見てて苦々しいと、斜め見空子。
>空虚な日々の気晴らしとして人の不幸の詳細を見たがり聴きたがり、、そこになにやら落ち度めいたものがあれば鬼の首をとったように非を鳴らし溜飲をさげる。
水俣病の子供を持っていなくても、なんとなく普通に暮らしてる人たちのなかでも、こういう人たちたくさんいるんじゃあないでしょうか?
じゃなければ、殺された人の華族を、葬儀をあんだけおいまわし、ひっきりなしに報道する番組が、それも各局、、ありえませんもん 苦笑
結局皆空虚なんでしょうかね?
浮遊物になっちゃったみたいです。
や、だからどうした、なんですが・・・。
(田山花袋「蒲団」という漢字の連なりを見ると、内容とは無関係に、自分のブタクサアレルギーが炸裂するような気になる私・・・^^;)
いつも私が頭に来るのは、事件にあった家族の方へ<今どんな気持ちですか?>と、マイクを突きつける無神経さです。
ほんとだもの。
お葬式帰りの人たちが妙に明るく人懐っこいように。
「今のお気持ちは?」、「最高!」とでも答えてやればいいのですが。
効率、効率、効率の悪いもんははよいね、って嫌な世界ですね。
もうかれこれ40年まえの本ですね。
あのころは公害問題がずっと続くっと思っていました。
今の中国が大気汚染で苦しむなどかんがえられませんでした。
時代は動いていきますね~
どうももっと悪くなっているようにも思えます。