日本の侵略・暴虐を見届けたカササギたち 景福宮 ソウル(2)
2005年 12月 07日
1395年に創建された朝鮮の正宮。1592年秀吉の侵略(文禄・慶長の役)でほとんど破壊される。273年後に復元されて再び正宮となる。ところが1910年日本が再び国権を奪い、またもやほとんどの建物を破壊する。1990年代になってようやく少しずつ復元が始まっている。日本の戦後生まれは、朝鮮総督府などといってもよその世界のことくらいにしか感じないかもしれない。韓国の人にしてみればこうして毎年少しずつ失われた遺産が復元されていくのを見るにつけ日本の”侵略”は現在形だろう。予算措置だって馬鹿にならないし、威容が明らかになるほどに当時の日本軍の暴虐も明らかになるのだ。
左の慶会楼は文禄・慶長の役で破壊されて後、1867年に復元されて辛くも日本軍の魔手は逃れたもの。迎賓館みたいなものか。池は氷が張っていた。
右は交泰殿(王后の寝殿)の後ろの峨嵋山にある温突(オンドル)の煙突。オンドルのタキグチとか煙の逃がし方が建物によって工夫をこらしてあって面白い。煙突の後ろに高い木があってそこにカササギが巣を作っている。カササギは韓国の国鳥で縁起の良い鳥とされる。日本では佐賀県に見られ県の鳥となっている。それは朝鮮出兵時に佐賀藩祖の鍋島直茂が「肥前勝々(ひぜんかちかち)」と鳴いたかささぎを佐賀に持ち帰り保護したからという説もある。ったく、どうしようもない。何羽もいて写真に撮ったつもりがうまく撮れていないので消去してしまった。帰国して調べてみたら本州では見れないし写真を撮るのはなかなか・・みたいだ。まずくてもいいから保存しておくべきだったと悔やんでも後の祭り。
衛兵の交代儀式。寒い中延々と。臨戦状態とか危険な状態ではこんなことはやらなかったのではなかろうか。平穏になったときに必要以上に儀式が大事になって、そういうことに秀でた能吏が出世して国の弱体化が始まったのか、なんて根拠もない妄想をめぐらす梟。壁に施された文様が美しい。
殺意持つ怒り覚ゆる経験の二人に一人子らは持てりと 数年前に、勤務する学校の中3から高3までの生徒たちの生活意識調査をしたことがあります。その結果は、衝撃的なものでした。 4人に1人は、親兄弟を含めて心から信頼できる人は1人もいないと答えました。しかも、半分近くの生徒が、2、3年の間に身近な人(親兄弟・友人・先生など)に殺意を抱いたことがありました。さらに6人に1人は強い殺意を抱いたというのです。... more
過去の戦争に思いをめぐらす、戦争は人を物を破壊・・・それだけです・・・。
それはそうと、日米開戦時の外務大臣東郷茂徳は、豊臣秀吉の朝鮮出兵で朝鮮から連れてこられた一族の末裔だそうです。歴史の奇縁を感じます。
コメントとTB、ありがとうございました。
こんな形で世の中が好戦的になって行くなんて、想像もしていませんでした。
御母上のお気持ちこそが唯一まっとうなものだと思います。
どんなことがあっても戦争だけは二度とゴメンです。
韓国にいらしたんですね。
ぼくは10回ほど行っていますが、この2年は行っていません。
懐かしくなりました。
カッチ鴉も。
書き込みありがとうございました。
昨晩の番組は見ませんでした。
カネの力によるグローバリゼーションが荒々しく進んで行く中で、豊かな国にも格差が拡大し、若者たちにも荒廃が広まっているのでしょうね。
それでも、親として、一教師として、若者に期待するしかありません。
今日の拙歌をTBさせていただきます。
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^ 朝鮮王朝の正史『朝鮮王朝実録(宣祖修正実録)』二十五年(1592年)4月14日(癸卯)条には、民衆によって略奪・放火されたと明記されており、李廷馥の『四留斎集』や李恒福の『白沙集』と李曁の『松窩雑説』にもその時の様子が記されている。日本側記録『大徳寺文書』では国王が内裏に放火して逃亡したとある。また小西行長の一番隊に属した松浦鎮信の家臣の記録『吉野甚五左衛門覚書』には「五月二日の夕くれに、都は是より一日路と聞こえし所の河バた(端)にて、都のかた詠むれバ、放火のけぶり(煙)立登り、…(中略、翌朝入京すると)…くうでん(宮殿)・ろうかく(楼閣)数々に、だいりだいり(内裏々々)に火を掛けて、上下万民ことごとく、唐国さして落ちにける」との記録がある。いずれにせよ日韓双方の記録が秀吉軍の入城を前に焼失したとしている。
史料なしにwiki以下の記事はどうかと。日本の悪のみを歴史観の中心にしたライフワークを送っているのかもしれませんが、現在の韓国の強烈な民族主義教育や政治は韓国発ニュースだけでも嫌というほどわかるもので、安易に迎合するのは、発信している国が異なるというだけげ、この上なく極右的民族主義史観主張になりかねないとご理解頂きたい。