福沢諭吉が悪かったのだ 村田喜代子「ゆうじょこう」&山本夏彦「一寸さきはヤミがいい」
2013年 07月 07日
小一時間、汗をかいて戻って台所で立ったまま冷やした大きなトマトにかぶりつく。
子供の夏が瞼をよぎる。
「東雲(しののめ)のストライキ、さりとは辛いね、てなことおっしゃいましたかね」、東雲節を知っている人も少なくなったかもしれない。
若い頃の宴会、この歌もよく歌ったが「東雲のストライキ」というのが意味が分からなくて、木場の近くの東雲で大きなストライキがあったのかなどと思っていたら寄席でこの歌を唄った芸人が「熊本の娼館・東雲楼の女郎たちのストライキのことだ」と教えてくれた。
俺の大好きな村田喜代子の新作小説はこの東雲楼が舞台、ストライキに材を取っている。
鹿児島県硫黄島の漁師から売られて熊本一番の娼館に来た15歳の娘・イチが主人公。
女郎とて文字も知らなければならず、花魁になるのならふつうの女性が逆立ちしても及ばない教養を身につける。
女郎たちの塾・「女紅場」の先生・鐵子は旗本の娘だったが、吉原に売られて娼妓として売れずもっとひどいところに落とされるはずだったが、素養を買われて熊本の女郎たちを教えている。
連作短編、イチの毎日が生き生きと描かれる、イチは毎日鐵子”おっしょさん”に日記を提出して読んでもらうのが生き甲斐だ。
机にうっぷすようにして一心に日記を書くのだ。
はつほのばんに(初穂の晩=初めて客を取った夜)故郷の島で月夜の晩に男女が草むらに消える風習を見て胸ときめかしていたイチだったのだ。
じだ(地面)が ほげ(抜け)もした(申した)
おっかさんや あねつじょ(姉)のつきよ(月夜)のことは
おもてしかこつ(楽しい遊び)と おもとった(思っていた)
まこて(本当に)ゆしこつ(良いこと)と おもとった
あしんした(足の下)の じだが(地面が)ほげて
あたいや あしたかい(明日から) いけんして(どうやって) つとむいっか(仕事しよ)
女にとって、男女の心の営み、豊かな感情の世界が織り込まれていない性交は苦痛のほかはない。
そのことがわかった十五の娘は、世界の底が抜けたのだ。
鐵子先生も底がない世界に身も心も覚えがあった。
踏みしめる足場のない所である。右足も、左足も、進むも退くも、ずぶずぶと沈んで歩くどころか、身も心も置き場がない
ところが連載が進むにつれて、諭吉の女子への公平な愛というものは、身分ある家の婦女子だけに注がれていることがわかって鳥肌がたつ。
芸妓の事は固(もと)より人外(じんがい)として姑(しばら)く之を擱(お)き諭吉は、たとえ妾や芸妓が良家の夫人になっても、これらは人間以外の醜物だから淑女貴婦人は交わるべきでなく、やむを得ず接する場合は、軽蔑の情を現さず
窃(ひそか)に其無教育破廉恥を憐れむこそ慈悲の道なれという。
なんたる身勝手な慈悲!
「天は人の上に人を造らず」と言った諭吉の内実の姿に鐵子さんは怖気を覚える。
諭吉は「最も恐るべきは貧にして智ある者なり」といい「貧人に教育を与ふるの利害、思はざる可らざるなり」ともいうのだ。
ひどいもんだね。
(漱石が日本人として見た英国や英国人をほとんど痛罵しているのに)なぜ漱石にこのことがあって弟子にないか、弟子のすべてがニセ日本人になったからで、私はさかのぼって福沢諭吉にいたるのである。福沢は英語を解するものの一人として遣米、遣欧使節に都合三度従っている。その短時日によく西洋文明の神髄をつかみ「西洋事情」「文明論之概略」を書いた。一刻も早く西洋に追いつかなければならぬ。2002年、88歳で亡くなった山本夏彦。
汽車汽船以下の文物に驚愕したのである。これをそのまま模して、やがては日本人の手で造らねばならぬと思ったのである。福沢は洋学を尊重して漢学を過去のものとした。富国強兵を鼓吹した。功利主義に徹せよと説いた。これを一言でいえば蒸気機関に目がくらんだのである。
孔孟の子は孔孟ではない、ただの赤ん坊である。ひとたび蒸気機関ができてしまえば蒸気機関から出発できる。汽車のない時代には戻らない。これを文明開化という。これ以上開花すれば世界は破滅すると言っても聞くものはないから、言うだけヤボである。
今の原発再稼働派は、さしづめ『原子爆弾に目がくらみ』、なにがなんでも原爆を日本人が造れるようになっていたいということだろう。
これ以上進めると世界は破滅すると言っても聞かない、英語を習えば世界に通じると思っている、福沢諭吉の手下たちだ。
切ない噺なのだがユーモアがあって不思議な明るさも感じるのはこの作家の特徴。
言葉を知ることによって考えることを覚え世の中の実相をみぬくイチの目はケガレがない。
そのまなざしを優しく受け止める鐵子さんと花魁の東雲がいい。
この二人が友情に結ばれて並び立つ姿は西部劇よりカッコいい。
当時の娼館、リクルート、性技の実習から一般教養までの教育、待遇、、娼館を支えた客と娼妓を送り出す親たち、、もろもろよく調べて、これは記録遺産かもしれない。
唖蝉坊の歌は今のことか?
どちらも新潮社
> これ以上開花すれば世界は破滅すると言っても聞くものはないから、言うだけヤボである
全くその通り
進化進化と唱えながら、その実退化してるのは、人間です
福沢諭吉をなぜ日本人があんなに大騒ぎするのか?
謎でした
何か胡散臭いものを感じて、私は好きではなかったので
でも、その意味が今わかりました
ただの外国かぶれ。だったのですね
そういった意味では、先端をいってたかもね、、苦笑
父親が会いに来るからと楽しみにしていると追加の借金をして娘にかぶせるため、娘に会うこともできないでこっそり楼主と交渉をして帰っていく、それも自由意思で、というのはあまりにも酷だと思いました。
そうしなければ一家が路頭に迷う貧困が彼らの自己責任とはいえないと。
その文明開化が行き詰まってしまいました。
なのにまだ経済成長だグローバルだという連中には呆れます。
時代は変わるのです。
まして、いまだに福沢教が跋扈しているのならば。
「痩我慢の説」では、勝海舟や榎本武揚が、なぜ最後まで徳川幕府のために戦わなかったのか、勝はどうして新政権のために働くのか、と非難する諭吉ですが、旧暦から一気に新暦に移行する時に論陣を張ったのを考えると、私は福沢という男の“軽さ”をどうしても感じてしまいます。
自分の心に正直とは言え、やはりこの人は大義より自分の利権を優先しているように思えてしょうがいないし、オールorナッシングの単純な二者択一に陥りがちなような、そんな印象です。
私は勝のほうにスケールの大きさを感じます。
慶應と同志社の違いは大きいのかもしれない。佐藤と竹中^^。
当時のインテリでも、、、失礼しちゃうんですね、、
村田喜代子は私もすきな作家ですが、こんな本も書いているのですね
ガンになったっとききましたが、お元気なんでしょうか?
私も紹介しました。http://pinhukuro.exblog.jp/18827706/
闘病体験も踏まえてこの小説が書かれたのかもしれないです。
そこが福沢の悪い所以です、なにが「人の下に人を造らず」だと吾輩は立腹する鐵子さんの肩をもつのです。
お札は人心を表していますね。
福沢諭吉の実態は勝海舟と比較すると実にはっきりと見えてきますよ。二人の共通点は同じ咸臨丸で渡米したくらいのもので本質的に全てが逆です。海舟は三国合従論の人で同じアジア人は強調すべきで決して戦うべきではないと日清戦争に大反対。福沢は中国、韓国に対して侮蔑的ですね。東洋文化や宗教観についても
海舟は禅に深く通じ、仏教、神道、キリスト教、老荘などさまざまな宗教や東洋哲学に精通していましたが、福沢にはそういう人間的な深さは感じられません。おそらくその違いは人間の本質にかかわる決定的な違いであり、家庭環境や父母の在り方の違いなどがその根底にあるのだと思います。夏目漱石はその視点において海舟に非常に近いと思います。両者ともの盲目的な洋化を批判
し日本独自の在り方を大切にしろと言っています。端的に言えば
福沢は「自我の人」、海舟は「自己の人」と言えるでしょう。